らららの話

文が下手なので文を綴ります お手柔らかに

無機質

ラインとかメッセンジャーとか

そういった類がいつまで経っても苦手

 

文字だけしか情報がなくて

文字だけが全てだから

汲み取るとか 誤解とか すれ違いとか

面倒で難しくて嫌になる

 

そういうのに頭抱えて

神経すり減らして

時間割くのって疲れる

世知辛い世の中だ

 

雑踏の片隅で という曲にこんな歌詞がある

「右手で文字を操りながら

実際の表情はさて置いて

顔文字に感情を込めながら」

 

エクスクラメーションマークの数で

感嘆の度合いは伝わらないし

笑顔の絵文字の瞳の奥は

笑っていないようにも思える

 

もともと文字でのやり取りが苦手で

何日も何ヶ月も空けてしまうけど

それは故意の無視ではなくて

私なりにいつも頭の片隅にあって

どう返信しようと考えてはいる

それを言い訳だという人もいると思う

 

だけど頭の片隅にあるということが

もうすでに心を疲弊させているのだ

 

家族からや業務連絡、決め事は

できるだけ…できるだけ早く

返信するように気をつけているものの

それだけで手一杯になってしまっている

 

常にスマホを触っているような人間のはずなのに

なんでたった一言の返信ができないのか と

言われるのは百も承知だろうけど

 

根本的なことを言うと

人といるときにスマホを触っている

という行為がまず苦手なのかもしれない

 

自分といる人にそうされるのが苦手で

故に自分もそうしないようにしている

だから基本的に一人でいるときにしか使わない

 

画面越しの人とのやりとりももちろん大事

だけど今、目の前にいる人はもっと大事

その人とだけの時間にしたいとは確かに思っている

 

でも早い返信を求める人からしたら

やっぱりそれは言い訳でしかなくて

だからその証拠に既読無視・未読無視

なんていう如何にもマイナスな言葉ができて

それがきっかけで人間関係が

どうこうなってしまうこともある

 

友だちとの繋がりは、心や気持ちであって

スマホだのメッセージアプリだのWi-Fiだの

ではないと思っていた

 

だけどそんなのは綺麗事で

今はフォロワーの数が友だちの数で

thumbs-upの数こそがステータスになっている

 

メッセージの返信が遅い私みたいな人は

きっと釣れないつまらない奴に位置付けられる

 

来月遊ぶ約束をしている友だちからの

日にちの確認のラインを開き損ねていた

 

慌てて返信したけれど見て分かる

怒らせてしまった 返信の文面が怒ってる

 

こういうのでギクシャクするのが嫌なのだ

やきもき というか相手を勘ぐるというか

友だちとの関係がこんなことで崩れるのが嫌だ

「こんなこと」が「こんなこと」ではなくなっている

でもそうやって自分で友だちを減らしているのかも

私の勘違い 独りよがりだったならいいのだけど

そんなオチも無きにしも非ず どっちみち疲れる

 

学校で毎日会っていたら 教室で「あっ」と思い出して

授業3分前に話して済むことなのに そうではいかない

 

いつどこで誰と何をしていても

その場にいない人と繋がることのできる

スマホという存在を不便に感じる瞬間

冷酷だけど必要不可欠な無機質的な存在

 

私が小中学生の頃はスマホ所持者は少数派で

私も持っていない一人だった

 

おもしろいテレビの話は次の日学校でしたし

休日に遊ぶ約束は口頭で済ませたし

自転車で登下校中にするおしゃべりが楽しかった

たまに好きな子と固定電話で話すのが新鮮だった

電話越しの声が何処と無く照れくさかったり

あの子は今何してるのかな、なんて

会えない人のことを考えるのはワクワクした

 

クラスみんなにプロフィール帳を書いてもらったり

仲良しの子と交換日記をしたりもした

 

スマホを持つようになってから

そういうことしなくなったなとつくづく思う

 

雑貨屋さんでどれが喜ぶだろうって考えながら

便箋やポストカードを選んで 手紙を書き

封を閉じて切手を貼ってポストに入れて

そろそろ届いたかなって返事を待つなんてしなくても

指先ひとつで連絡が取れてしまう ほんと便利になった

 

留学先のホストファミリーやクラスメイトとも

遠くに住むおじいちゃんおばあちゃんとも

大学が離れた友だちとも

すぐそこにいるみたいに会話ができる

 

だけど便利になるということは裏を返せば

何か世間一般に「面倒」だと言われる工程を削るわけで

それが何となくかなしくも感じる

 

それでも世間の荒波に抗うなんてできるわけなく

流れるプールみたいに静かにその変化に乗っかるしかない

 

だから今日も、頭を抱えながら右手で文字を操っている

実際の表情はさて置いて顔文字に感情を込めながら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

競わない 比べない 争わない


私たちの多くはこれまで、競うこと・比べること・争うことを前提として生きることを教え込まれてきた 人と競い、比べ、争うことで人より抜きん出て初めて、偉いとか立派だとか素晴らしいと評価をされる という価値観で生きる日々を送ってきた


その結果、「幸せとは、競うこと・比べること・争うことではじめて手に入るのだ 人より抜きん出て、勝ち続けることが幸せを手に入れる唯一の道である」と信じて疑わなかった

 

勝つことこそが正しく、勝つために努力をしないのはダメな人間であり、競争から落ちこぼれると、社会の中でも価値がない存在であるかのような錯覚に陥ることもしばしば

 

そして、「どうして⚪︎⚪︎さんにできて私にできないの」だとか、「⚪︎⚪︎さんばっかりズルイ」だとか比較することでしか自分を表現できなかったり 自分がここにいることを証明できなかったり 安心感を味わえなかったり 時に絶望したりした 

 

勝手に競って比べて争って、勝手に情緒不安定になっている

 

他人の成績を聞き出して見下すことでしか自分の賢さを感じられないあのクラスメイトも、本当はその人はそんなこと微塵も思っていないのに勝手にそう解釈してしまう私も、どちらもPM2.5による大気汚染さながらの薄汚い思考回路をしている

 

辛いとか しんどいとか 自分なんかとか 感じる理由が「誰かと比べて」である限り、行き詰まってしまう 息も詰まってしまう


人間の価値というのは、勉強ができるとか、何か数字で判断できるような単純なものではない たしかに勉強は大事だし勉強することでその後の人生の幅が広がっていくことに間違いはないだろう 少なくとも私はそう信じて大学に通っているし実際勉強のできる人はほとんどの場合計り知れないほどの努力をしている

 

だからこそ大事なのは人と比べることではなくて自分を認めることから始まる気がする 甘口カレーとチョコレートの甘さを比べられないように同じ土俵に立たない者を比べることは無意味なんだと思う 勝手に比べられて一喜一憂する必要はこれっぽっちもない

 

自分が白い服を着るからグレーの服を暗い色だと感じ、自分が黒い服を着るからグレーの服を明るい色と判断するように、みんな自分の価値観で生きている その価値観を誤って押し付けないこと 誰にでも素晴らしい個性や存在価値があらゆるところに隠されている

 

人と競うことが好きな人はそのような生き方をすればいい だけど、競争にはキリがない 仮に勝ち抜いても、本人が満足しなければ永久に心が満たされることはなく、人を蹴落として優位に立っても孤独なだけかもしれない 


人と競い合って自分の目標を達成し、自分のためだけに生きるのも大事だけど、時には人に何かをすることで喜ばれ、自分も人の好意に甘えてそれに感謝して生きてもいいのではないか


そもそも、世の中の現象というのは、実は表裏一体なのかもしれない 特に、勝ち・負け、幸・不幸、善し・悪し、成功・失敗、敵・味方の5つは、常に分けられるように教育されてきたが、実は分けられないものではないだろうか

勝ちをつくるから負けが生まれ、特別に切り取った時間だけを幸せと感じるからそのほかを不幸に感じる 敵でも味方でもないただの相手を敵とみなすから一生分かり合えないと思い込む


ものや現象はある方向から見れば、幸せや成功に見え、また違う方向から見れば不幸であり失敗になる 見方が変わればまったく違ったものに映る だから、すべてのことをそのように分けることに意味はないような気がする


正しいか、正しくないかを問いかけるより、ただ笑顔で穏やかに折り合い、わかり合って生きていくこと 誰かを蹴落として自分が優位に立つ必要はないということ

 

比較はときに向上心になるけれど、何かと比較していると知らぬ間に何かを貶して優越感に浸る癖がついてしまう

 

大切なのは相対評価ではなく絶対評価 私たちは他の何とも比べられない絶対的な存在である それは自惚れでも過信でも傲慢でもなくて最強の自己肯定で揺るぎないもの 見た目も考え方もなにもかも異なるのだから比べないし比べられやしない

 

数字を競うことをしなかった日本人は、西洋化したことで病気になって死ぬ人が増加したらしい

 

数字を追いかける仕事をしている人はガンになりやすいと言われている 競い合ったり比べ合ったり数字に左右される生活ばかりしていると、やがて体は嫌がってしまい死ぬ方向に動くのだと言う


たとえば、100万円貯めたら幸せになれると思い一生懸命貯める でも、100万円貯めたら、1000万円持っている人がいることに気づく そして、1000万円貯めればもっと幸せになれると思い努力する しかし、1000万円貯まっても、その上には1億円持っている人がいる そして「必死」になっていくと、「必ず、死んでしまう」わけだ 100万円ない時は幸せではなかったのだろうか


つまり、数字的な幸せはどこにもないのだろう 幸せというのは私が感じる以外にはないのかもしれない

 

競わない、争わないでいると、敵を作らない それどころか、まわりのもの全てを味方にしてしまう 無敵というのは、敵を全部なぎ倒すことではなくて 敵を作らないこと 争いに来たものを全部味方にするのが無敵の本質だから

 

競わないし 比べないし 争わない

そうして周りに左右されない無敵な自分になる

 

幸せの本質

 

何も起きず普通に淡々とすぎる日常こそ幸せの本質であると気づくと、災難とは無縁になる


あれもほしい これも足りないと言って、ずっと何かを求め続ける人がいる でも、幸せというのは今自分が置かれている日常そのものなのではないか 何も起きないことがどれほど幸せであるかということを、誰もが知っているはずなのに忘れてしまっている 毎日が、淡々と平凡に過ぎていくことが実は幸せの本質なのだ


幸せというのは 良いことが起きるとか、楽しいことが起きるとか、何か特別なことが起きることではなくて、むしろ何も起きないことである それが幸せの絶対的な本質でそれこそが最大の奇跡である


ところが 幸せの本質を忘れたまま、どこかに幸せがあるに違いないと言って自分を叱咤激励し、もっと私が頑なに張って成長すれば、幸せが手に入るんだと思いながら生きている人が多い


でも結論を言ってしまうと、究極の幸せというのは、努力をしたら手に入るものではないのかもしれない 人間は病気や事故、トラブルなどに巻き込まれた時にはじめて、自分が幸せの中で生きていたことを実感する


たとえば、右手を捻挫して使えなくなったとする すべて左手だけでやらなければいけないことが不便で、不幸感を味わう でも捻挫が治って、右手が自由に使えるようになったら、右手が使えることはこんなにも幸せなことだったのかと感謝できるようになる


果たしてこの右手が使えなかった2週間は不幸だったのだろうか?そうではない 不幸だと思っていた2週間があった結果として、それから先ずっと右手に対する感謝の心が湧いてくるようになったわけである 右手が自由に動くことでありがとうと思う喜びを1ついただいたわけだから、捻挫をしていた2週間は不幸でもなんでもなかったと分かる 病気や怪我をした事実と不幸という感情は別のものなのだ


この2週間は、罰が当たったとかペナルティーが課せられたとか、不幸があったということではなくて、この右手に感謝する心、喜びの心を1つ増やすため、何も起こらないことがどれほど幸せかということをわかるためにあったのかもしれない そういうしくみがわかって、自分が幸せの中にいることを認識する そして災難とは無縁になる


お金も時間も手間暇もかけないと幸せになれないという感性から、世間一般の人から見たら「だから、何?」と思われることに楽しみを感じられる、さらには「何もなくても幸せを感じられる」ように自分の感性を磨いていくと、自分がいつも楽しくいられる


英語で現在を「present」と言うけれど、普通に淡々と過ぎているこの瞬間は「何も起きていない」のではなく、むしろ宇宙や神様からの最高の「プレゼント」が来ているということとも考えられる

 

だから、何かが起きてくれたら幸せなんだけど…という考え方ではいつまでたっても幸せにはなれない気がする そもそもすべての人が指をさして「これが幸せだ」と言えるものかこの世にあるのだろうか


たとえば、私の思う幸せがあなたにとっては幸せでないこともあるかもしれない すべての人が絶対的な価値を持って幸せだと思えるものは、地球上には存在しない

 

たとえば、仲間たちと一緒に食事をしたり何かを見たり聞いたりしたときに、そこで幸せを感じるというのは、その人にそう感じる心があるからだろう 幸せは感じた人にのみ、そこに存在する 感じた人にのみ幸せが生まれる

 

同様に、不幸というものも、現象もこの世には存在しない どんなにお金持ちで恵まれた環境にいる人でも、本人が不幸だと思えば、それは不幸なことになる 逆に、お金がなくても、状況や環境が他の人から見て酷いものであっても本人が幸せを感じていればそれが幸せになる

 

前に、日本とアフリカのある国の女子高生が1週間家族を交換するという企画の番組を観た ある国から来た女子高生は女子高生といっても学校には通えず、毎日家族のために何十キロも往復して水を汲みにいっているそうだ 彼女は初めて100円ショップに行き、プリクラを撮り、家に帰ればあたたかいご飯が用意されていることにとても驚き目を輝かせて喜んだ

 

しかし、2.3日もすると彼女は「帰って本当の家族に会いたい」と泣いた 学校に通えず毎日重い水を汲む繰り返しでも電気も通ってなくても栄養のない根から絞ったものがご飯が食べたくて家族に会いたくて泣いたのだ そして同様に日本の女子高生もあたりまえだと思っていた日常を恋しく思い帰りたいと泣いた

 

幸も不幸も存在しない それは他人が決めることでも外的なもので決まるのでもなく、その人自身の心が決めているもの 悲しみや苦しみは実は現象の捉え方によって、幸せになってしまうこともあるのかもしれない


幸せを感じようと思えば、100や200の幸せが身の回りにあることに気がつく 毎秒毎秒毎秒毎秒、私が幸せだと思うすべてのことが私にとっての幸せになる

 

幸せはその人にのみ帰属するものであり、幸せが見つからないと言っている人は幸せを感じる心を動かしていないだけかもしれない 目の前の現象について私が何も感じなかったら、ただ通り過ぎるだけの現象にすぎないからだ

 

ところが、私がその現象を幸せだと思ったら、その瞬間に幸せなことになり、一方でその現象について不幸だと思ったら思った瞬間に不幸なことになるわけだ 事実や現象はひとつ ただ、それを受け止める側の心がその現象の価値を決めている 事実や現象と感情はまったく別のもの
その人自身の心が決める

感情の無駄遣い

 

噂話が好きな人はどこにでもいるものだ

 

主婦の井戸端会議さながらにありとあらゆる人の話を吹聴したがる厄介な存在

 

レポートを書くときには引用や出典を明記しなさいと口酸っぱく言われているのに噂話においてはそんなことはどうでもいいらしい

事実無根であったとしても誰も気に止めないし、訂正する術も与えられないまま伝わるその話はもはや一種の作り話とも言えるほどだ 世の中というのは驚くほどに理不尽でできている

 

根も葉もなくて 仮にそれが嘘だとしてもおもしろいというだけで あっという間に広まる 誰かの話のネタのひとつでしかないのだ

 

広まる過程でその噂話は少しずつ変化したりもっともっと嘘になったりして大きくなる 事実とはかけ離れた得体の知れない何かだけがひとり歩きすることもある

 

「あらゆる出来事の中で一番悲しいのは個人のことなどお構いなしに世界が回っていることだ」

タイトルは忘れてしまったが、 私が強い感銘を受けた本の中のワンフレーズである

 

私たちは弱くて脆い生き物である ゆえに まわりの環境に必要以上に振り回される 情報の取捨選択を見誤り 感情の無駄遣いをする

勝手に振り回されているのは自分なのに そのせいで周りの人まで振り回してしまうこともある

 

しかし残念ながら世の中はそう甘くないようで私たちの事情などお構いなしに進んでいく

どれだけ情緒が不安定になったところで同じように時間は過ぎていく

 

常日頃、“安定した感情” を心がける 広いこころで大抵のことを受け止める デフォルト以下のネガティブにはならない 無駄に怒ったり泣いたり落ち込んだりしない 周りの人を巻き込まない 引きずり込まない

 

たとえば、「⚪︎⚪︎さんがあなたのことを××と言ってたらしいよ」なんて話は愚の骨頂だと鼻で笑って交わしたい

なぜそんなことをわざわざ自分に報告するのかというそもそも論から始まるわけであるが、らしい と言っている時点で 直接聞いたわけではないし、きっとこういう人はそれを聞いて ⚪︎⚪︎さんのことを悪く言う自分を同じように報告するのだろう

馬鹿げている 勝手に言わせておけばいい

 

また それは人の相談に乗るときにも言えることで、私たちは誰かの人間関係の悩みを聞くときに一方からの視点の話だけを聞いて相手に全て非があるように思ってしまいがちである

 

双方の主張を聞かずしてあれこれ意見を述べるなんてことは非常に偏った見方である というか無責任である

 

ましてや一方の話だけを聞いて 相手はひどい人なんだ なんて思うのはお門違いもいいとこだと思う そういったことに気持ちを左右されてはいけない

 

そしてそれと同時に 他人と自分を切り分けて考える 他人と自分はどこまでいっても他人であってたとえそれが家族であっても親友であっても他人は自分になり得ないし自分も他人にはなり得ないからである

 

なんて冷酷なヤツだ 血が通っているのか と言う人がいるだろうと思うけれど私は何度もそれで失敗してきた身である

 

他人の悩みを自分のことのように考え過ぎるあまり過剰に落ち込んだり 不必要に抱え込んでしまったのだ

 

意外と人は誰かに話を聞いてほしいだけだったりするよ と教えてもらったことがある 実際、翌日にはケロッとしてたりして驚かされる

人間というのは不思議な生き物

 

かろうじて名前を知っている程度の人が陰で嫌なことを言っていたり仲がいいと思っていたのは自分だけだったり側から見たら仲良しグループに思える人たちが陰では愚痴や不満だらけだったりそういうブラックな部分を吐き出す用のSNSの裏アカウントを持つ人がいたり

 

たった一度の失言が社会的制裁を受けるだけの重みを持つこともあると考えさせられるニュースをここ最近頻繁に見るわけであるが そのたびにたった一言で人の信頼はなくなるのだと痛感する

 

言葉の選び方次第で命取りにもなる

受け手によって捉え方も違う

本音と失言は紙一重なのだろう

 

山ほどある嫌なこと全てにセンサーを働かせていたら心がいくつあってもズタボロになってしまう 人間関係ブルドーザーはどこにでもいる

 

言いたい人には言わせておけ

誰も自分を傷つけることはできないし

心を乱されることもない

 

代わりに 気にしない能力を身につける 特に気にしても仕方がないことを一々気にしない 自分は自分 いいところだってある そう思うだけで安定した感情を保つには十分だ

 

自分のことを何にも知らない人たちのなかに知らない自分の嘘のイメージが植えつけられるほど不愉快なことはないけれど、きっとそんな人はこの先も関わっていく人ではない

 

嫌いな人は嫌いでいいからそれ以上考えないようにすること 気にしない 気にしない

そして 気にならない というのが究極の形

 

だから そんな人たちの言葉に感情をどうこう動かされる必要はないというわけでそういったことには無関心・不干渉でいこうよ

 

他人の勝ちは 自分の負けではない

誰かの得は 自分の損ではない

 

他人と自分を比較したら一生キリがないし 無意味あんな人になりたいなぁと努力するのはアリだけど自分が自分に満足できたら それで十分幸せ

自分で自分を守る!

自分の幸せは自分で決める!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が見ている色と他人が見ている色は

同じなのか、と昔から疑問に思っていた

 

自分の見ている『赤』は、

友達の見ている『赤』とは違う色なのかもしれない

言葉では同じ『赤』でも証明なんてできないし

その人と体ごと入れ替わってみて その人の目になって

同じものを見ることでもできない限り無理だと思う

同じ色なのに、同じ色ではない不思議

それはきっと、色は目で見ているだけではないから

 

色とは、日常の中に空気のようにあたりまえにあって

見えるけど説明ができない 豊かなもの

人は自分の色を見て生きていく

自分の思う通りに 心揺さぶる音楽のように

 

色を使った表現がふんだんに盛り込まれた宮沢賢治

本を読むと思うのだが (オススメはなめとこ山の熊)

自分の感じる色を大切にすると心が豊かになる

 

色の見本帳に名前が載っていなくても

心では知っている色たち

誰でもきっと自分だけの色を見つけて見ている

毎日の中で感じる色に 名前をつける方法は好き勝手

 

絵や映画や音楽、

それからくしゃみにケンカ、スキップ

私たちは何にでも感じる色がある

そうやって目に見えないものが見える方法を

私たちは知っている

 

かつて 月あかりに恋しい人の面影が見え、

風の音に秋の姿が見えていたように

モノクロのテレビの画面が色鮮やかに見えたように

目を閉じたときに見る夢が真っ暗闇ではないように

香水を嗅いで 懐かしい景色や声を思い浮かべるように

パン屋さんの前を通って やさしい気持ちになるように

目に見えないものを色で表すことを

私たちは知っている

 

夏の運動場の金色の地面

金魚すくいの水槽の水色と赤い尾ひれのひらひら

チョコレート色の電車と白い帽子

日が沈む直前に足元からのびる藤色の影

あおい空 ぞうげ色の昼 るり色の夜 レモン色の月

それらは全部自分だけの色

色とりどりの気持ちや、思い出や匂いには色がある

 

嬉しくて小走りで待ち合わせに向かうはちみつ色の私

大好きな人と鼻歌歌いながら散歩するそら豆色の午後

昼下がりに居眠りする白い粘土が混ざったような時間

深く冷たい海の底に沈むような落ち込んだ気持ち

薄桃色のポップコーンみたいにぶわっと咲く桜

心の動くところから、シャボン玉の虹のように

たくさんの色が生まれてくる

 

赤と黄色を混ぜてオレンジという言葉ができたように

赤っぽいオレンジや黄色っぽいオレンジがあるように

私たちはまだ名前のない色をたくさん知っている

日が沈んだあとに数分間だけ見える 燃えるような

でもどこか寂しげなあの空の色を既存する名前では

表しきれないことを私たちは知っている

 

くすんだり透き通ったりしながら誰かと混ざる

知っていても知らなくても

伸びたり縮んだり弾けたり滲んだりしながら

毎日いろんな色に生まれ変わって広がっていく

チューブから出したままのラベルの付いた色ではなく

パレットの上で混ざりきらないまだ名前のないような

不確かで だけど確かにそこにある生まれたての色

 

そんな色とりどりの日々がいとしく思えるように

22歳

 

昨日、22歳になった

 

数え間違えてるのではないかと思ったが

やはりまたひとつ歳をとったようだ

“もう” でも “やっと” でもなくただの22歳

 

免許の更新のハガキや年金関連の封筒、

ご飯屋さんや美容院からのバースデークーポンが

誕生日であることを教えてくれる

 

だからといって何かが急に変わるわけでもなく

今日も満員電車を乗り継いで学校に行くわけである

 

父と母は22歳と21歳で結婚したらしい

3つ上の姉には今年2歳になる子どもがいるし

いとこは昨年から4人立て続けに父親母親になっている

 

保育園の頃、2人で暮らしたことのあるおばあちゃんは

私が結婚して子どもを産むまでは死ねないと

会いに行くたびに心待ちにしてくれている

 

が、結婚どころか彼氏もロクにできそうにないから

少なくとも10年以上は長生きしてもらわないと

いけなさそうだ それまで元気でいてほしい

 

結婚や出産こそがステータスだ 幸せだ という考え自体

押し付けないでほしいと思うわけではあるが

何でも経験しない限り意見は言えないのかも、

とも思うから結婚できたらいいな

 

子どもを育てるだけの責任能力がないどころか

ペットを飼うことにも気が引ける

 

可愛い/癒しという理由で 安易に飼えないし

亡くなったから新しいペットを、なんてできない

 

そもそも動物を愛でる和やかなバラエティー番組と

動物の殺処分の惨さを訴えるドキュメンタリー番組、

両方が放送されるこのご時世に違和感を覚えるのは

私だけなのだろうか

バイトをしている雑貨屋さんのおばあちゃんが

頻繁に保護猫の赤ちゃんを育てて里親を探しているのを

見ているのもあってか、何とも言えない複雑な思いでいる

 

責任といえば、言動における責任も同じように言える

たとえば、プラダH&MDolce&Gabbanaのファッションが

人種差別だと世間で取り上げられても 私はこう思う と

ブレない芯のある自己を確立できていない

考え方は人それぞれだからいろんな意見があるものだ

と、当たり障りのないことを言ってその場をしのいでしまう

 

全ての言動に責任が伴う年齢になっているのは分かっていても

果たしてその重みを感じながら言動に移せているだろうか

 

年齢相応の落ち着いた大人の女性になりたいと

ここ数年、お決まりのように言っているが

小学生の頃に想像していた22歳とはかけ離れていると

自分でも思うから今年はそう言うのを一旦やめてみる

でも、いくつになったらそうなれるのだろう

 

星が十数個もあるてんとう虫や

教室を漂うケセランパサラン

もう見つけられなくなってしまった

 

水を流してすべり台をウォータースライダーにする発想力も

骨が折れても怖いもの知らずなチャレンジ精神も

自転車を乗り回してどこへでも行く体力もなくなってしまった

 

モスキート音が聞こえなくなったと同時に

純粋な気持ちにフィルターがかかってしまったのだろうか

 

コーヒーの美味しさはまだ分からないけれど

それでも免許証は青色に変わったし ATMの使い方も覚えた

アニメよりもニュースを自然と観るようになったし

バイトをしてお金を稼ぐ大変さも学んだ

 

妬んだり 蹴落としたり 比較したり 見返りを求めたり

顔色を伺ったり 空気を読んだり 愛想笑いをしたり

根拠もない噂を吹き込んだり 信じたり 裏切ったり

皮肉ったり 嘘をついたり 遠慮したり 感情を隠したり

 

人間の嫌な部分が目に付くようになった

そして私もそんな嫌な人間になっていく

 

両親や祖父母の時代と今は違うとはいえ、

この歳になっても経済力はまるでなくて

まだ頼りっきりの学生をしているし

精神的にもまだまだ子どもだ

実家通いであるし自立には程遠い

 

春から大学生になる子どもの親が率先してアパートを

探しているのを見て首をかしげたくなるけれど

結局のところ私も同類である

 

22歳の私はどうなるのだろう

どうなりたいのだろう

 

老いては子に従えだけど

老いたる馬は道を忘れず 老馬の智

 

自分の進む足元が暗闇に埋もれないように

自分を見失わず自分らしく素敵な人になる

 

そして、自分の幸せは自分で決める

他人と比較して一喜一憂したり

必要のないことに対して感情の無駄遣いをしない

 

望まれて生まれてこなかった、だとか

自分は要らない子、と聞くたびに心がズキンと痛むけど

その言葉通りに生きていたら 相手の思うツボだ

生まれた事実は変えられないのだから恨んでも仕方ない

そう思われて生まれてきたとしてもそれを裏切るのだ

生まれた理由がどうであれ 生きている理由は自分で決める

 

自分で決めて選んだ道を進み、そして誰のせいにもしない

 

人はこの世に存在した瞬間から死に向かって生きている

どんな生き方をしたって 嫌でもいつかは死ぬ 有限である

僻んだり怒ったりして過ごすには時間が短すぎる

私の人生は誰のものでもなく私のもの

 

あれこれと話が飛んでしまったけれど

こんなひねくれた考えばかりしない1年にしたい

 

といっても、いつも何も考えてないんだけどね

 

 

最後に、

おめでとうって言ってくれた方々ありがとうございました

ダブルピースの22歳、がんばるぞ〜〜

 

 

怒りと悲しみ

 

(ここで話す “怒り” は、怒ると叱るの違いに

ついてなどではなく単純に怒ることについてである)

 

 

昔、私はよく怒っていた

 

「普通はそうじゃない」

「当たり前のことを聞かないで」

「それはあなたが間違っている」

「適当なこと言わないで」

 

そう言われるたびに腹が立った

あなたのものさしで私を測らないで、と

 

私はいつでも真剣だったのに受け入れてもらえなかった

勝手に決めつけていろんなことを言われた

私のことなんて何も知りもしないのに

知らない人に限って否定したり鼻で笑ったりした

自分のことを分かってくれる人が少なすぎると思った

 

その度に感情的になって大声で叫んで

何かを蹴飛ばしたいような気持ちになった

でもその怒りは届かなかった どうにもならなかった

 

THE BLUE HEARTS の少年の詩という曲に

こんな歌詞がある

「どうにもならない事なんてどうにでもなっていい事」

 

怒ってもどうにもならないこともある

感情的になって 泣いて 怒鳴っても

そのエネルギーが相手に届かないのであれば

怒り損である

 

もちろん、怒ってどうにかなることに対しては怒ればいい

意味がないことを一生懸命にすることに意味がある場合もある

 

だけど、怒ってもどうにもならないことに対して腹を立てても

しょうがない 仕方がない

どうにもならないことはどうにでもなっていいこと

それは諦めとも呆れとも少し違う気がする

 

どうすることもできなくて、相手にも自分にも腹を立てる
心が止まらなくなる あれは、悲しかったんだ

分かってもらえないことが悲しかったんだ


青い青い涙のようなこころ

 

悲しみを受け入れられないとき、それは怒りになる

その怒りを時間の流れと一緒に、胸の奥に沈めて耕す

すき込んでは、何度も耕す

そうして怒りは悲しみの正体をあらわす

そしていつのまにか遠くなっていく

 

遠くなった怒りは悲しみとなり、

そしてもっともっと遠くなると切なさに変わる

 

切なさは悲しみより、少しあたたかい

どんな悲しみも自分のからだの一部に思えるようになる

 

腹が立つことがあったとしても

この人はこういう人なんだと受け止めることにした

そういう考え方をする人もいるんだと思うようにした

受け入れるのではなくても受け止める

 

相手にどうこうしてほしいと求めてはいけない

自分のものさしで測ってはいけない

相手は自分のために生きているわけではないから

人に変わってほしいと願うより自分が変わるほうが

簡単かつ楽しい

 

観光案内所というバイト柄か、

理不尽に怒られることもしばしばあるが

そういう考えもあるよねと受け止められるようになった

 

怒ってもどうにもならないことばかりの世の中に

また腹を立てたくなることもあるけれど

そんなに気張って生きなくてもいいと思う

 

怒ってどうにかなることは

怒らなくてもどうにかなる