らららの話

文が下手なので文を綴ります お手柔らかに

色とりどりの日々が愛しく思えるように

白か黒かの二択しかなかった私の世界にグレーができて、白っぽいグレーや黒っぽいグレーができて、そこからいくつも色が生まれた。

冷たい悲しみの色でしかなかった青から素直で清らかで透き通った水色ができて、落ち着いて柔らかな深い海の群青ができた。

感情的で攻撃的な色でしかなかった赤から前向きであたたかい朱色ができて、元気でのびやかなお日様のオレンジができた。

チューブから出したままの混じり気のない鮮やかな色も、パレットの上で重なって混ざりきらない曖昧な色も世界には存在する。 色の見本帳に名前が載っていなくても、心ではたくさんの色を知っている。まだ名前を持たない色を、二度と再現できない自分だけの今の色を、見つけて見ている。

乾いたり滲んだり掠れたりムラになったりくすんだりしながら、毎秒新しい色が生まれてくる。不確かだけど確かにここにあって、時に繊細に時に大胆にゆっくり溶け合いながら、淡く眩く、ゆらめき、満ちて広がっていく。

私は知っている、本当に大切なものは目に見えないことを。時間も想いも愛情も信頼も、心で見なくてはいけないもので世界は溢れているということを。

心和らぐ日常も心揺さぶる非日常にも、思い通り描く理想も思い通りにいかない現実にも、すべてに色がある。

かつて月あかりに恋しい人の面影が見え、風の音に秋の姿が見えていたように。モノクロのテレビの画面が色鮮やかに見えたように。目を閉じたときに見る夢が真っ暗闇ではなかったように。香水を嗅いで懐かしい景色や思い出や声を思い浮かべたように。パン屋さんの前を通ってやさしい気持ちになったように。目に見えないものを色で表すことを私たちは知っている。

ふかふかの肉まん。古いセピアのプリクラ。腐りかけのアボカド。カチカチのココナッツ。塩かミルクか区別がつかないジェラート。釣り上げたイワナ。ツナなし素麺。溶けたアイス。ぐったりしたひまわり。地元クオリティーの花火。マーブル模様のいちごミルク。汗の滲みたシャツ。澄んだ川に反射する山。焼きすぎたパン。 昼下がりにソファーでうたた寝する白い粘土が混ざったような時間。天色の空、ぞうげ色の昼、茜色の夕焼け、るり色の夜、レモン色の月。

底なし沼に沈むような落ち込んだ気持ち。ポップコーンが弾けるみたいに上機嫌で足取りの軽いスキップ。ゲームで負けて悔しくてワーッと叫んで怒られてしょげたり。心の動くところから、シャボン玉の虹のようにたくさんの色が生まれてくる。

それから、鼻歌まじりでお出かけの準備をするはちみつ色の私。暑いと文句を言いながら手をつないで散歩するそら豆色のあなたがいて。

赤と黄色を混ぜてオレンジという言葉ができたように、赤っぽいオレンジや黄色っぽいオレンジがあるように、同じものを見ても人の数だけ捉え方がある。日が沈んだあとに数分間だけ見える、燃えるようなでもどこか寂しげなあの空の色を既存する名前では表しきれないことを私たちは知っている。

アナログ人間な私、デジタル派のあなた。

好き嫌いがない私、甘いものに目がないあなた。

寒いのが苦手な私、暑さにも弱いあなた。

楽観的で前向きな私、現実的で心配性なあなた。

能天気でおおらかな私、慎重で思慮深いあなた。

大雑把で適当な私、几帳面で芯の通ったあなた。

行き当たりばったりな私、計画的で行動的なあなた。

感情表現が豊かな私、感情の起伏がなく冷静なあなた。

優柔不断で保守的な私、決断力があって頼りになるあなた。

自分の非を認めない頑固な私、自分が悪くなくても折れて歩み寄れるあなた。

だらしなくて素朴な私、きっちりしていて人の目を気にするあなた。

真逆のように見えるけれど、そうではなくて。補い合ったり支え合ったり、絶妙なバランスで持ちつ持たれつ関係を築いている。

 

 

そんな色とりどりの日々が愛しく思えるように

はじまりは、おわりのはじまり

恋愛はしゃぼん玉。不規則にゆらゆら漂い、時に近づけあったり遠ざけあったり不安定な動きを繰り返しながら、最後は音も立てずに弾けて消える幼く儚い輝き。

二十代半ば、三年弱、私の初めての大恋愛はあまりにもあっけなく幕を閉じた。周りから何度助言をもらっても、なんだかんだ離れられなくて、なんだかんだ楽しいこともたくさんあるし、なんだかんだでここまで続けてきた。それがようやく終わりを告げた。恋愛は縁とタイミングだと思い知らされた。

出会ったあの頃と同じ春の湿った夜風にはまだ冬の余韻が残っていて、ひんやり生ぬるく混在していた。理由なんてなくていいってお互いわかっていながらも、もっともらしい口実を探して、うんと遠回りして何時間も散歩したあの街。 昼間賑わしくしていた人たちは暗くなる頃にはどこかにかくれんぼしてしまうけれど、日付が変わっても街灯を頼りに歩けるくらいには明るくて寂しさを感じないあの街。京都タワーも嵐山も蹴上も平安神宮も、その道中の王将もきぬかけの道も抹茶ラテの売っているコンビニも力水も。どこもかしこも至るところに思い出が詰まりすぎているあの街を再び訪れるのは今の私にはまだ苦しい。

あの頃の私は無垢で純粋で、初心で無知で、靴擦れも寝不足も心地よく思えてしまうほどに盲目ながらも、両手に収まるくらいのちょうどいい幸せをちょうどいい温度であたためることができた。ごくありふれた平凡な日常こそが彩り、今でも昨日のことのようにすべて丁寧に鮮明に思い出すことができてしまうほど一つ一つの出来事を噛み締め、味わってきた。 あっという間という言葉は好きではないのに、まさしく泡沫の夢だった。

ずっと前からお互いを知っていたみたいな居心地の良さ、他の人には伝わらないしょうもない笑いのツボ、パズルみたいにぴったり合う波長は本当に不思議で何にも代え難かった。この人以上の人はいない!と信じて疑わなかった。彼の不器用な優しさと私の素朴な気まぐれさが絶妙に溶け合うような、底に溜まって微妙に混ざりきらないような、そんな長くて短い、甘ったるくてほろ苦い三年だった。

大事に大事に両手いっぱいに抱えてきたはずの思い出は、指と指の隙間から砂時計みたいに密かに溢れていて、気づいた時には空っぽになっていた。掬おうと足掻く間も与えず、何もかもが過去になった。カメラロールにできた空白の三年、いつもギリギリだったスマホの容量は皮肉にもすっきりした。無我夢中で削除ボタンを押していると、ひとつだけ思わず再生してしまう動画があった。初めて一緒に行った神戸で撮った「五年後の僕たちへ」という未来の自分たちにむけた動画。話した内容も撮ったことすらも全然覚えていなかった。仕事はどうですか?結婚していますか?子どもはいますか?楽しく過ごしてますか?この先も当たり前のように一緒にいる未来の想像を膨らませては楽しそうに語っていたけれど、何ひとつ実現しないどころかその動画を一緒に見返すことすらもなかった。私の心にも穴が空いたような気持ちになった。

この先ずっと一緒に生きていく覚悟も、さよならを言う強さも持たなかった彼。代わりに私が切り出した別れには情からくるわずかな痛みと寂しさを伴ったけれど、ほんのちょっとの勇気とドライさで執着を手放した。今まで費やしてきた時間を無駄にしないことより、これからの時間を無駄にしないことのほうが大事だとどこかの誰かが言っていた。

一番近い他人同士だからこそ必要な、お互いを慮る気持ちがいつの間にか欠け、誰よりも大切に扱うべき存在なのに心無い言動で傷つけ合ってしまった。自分の意見だけが絶対的に正しいと決めつけないやわらかい想像力だとか、なるべく相手を傷つけないために選ぶまあるい言葉だとか、そういう思いやりが私たちの中で圧倒的に減ってしまっていた。恋人という存在は口約束でしかないから、当たり前のようにある当たり前ではない繊細で脆い愛を日々丁寧に育まなければいけなかった。人は些細なきっかけで二度と会えなくなってしまう。友だちよりも親よりも近くにいたのに、誰よりも遠い存在になる。付き合っていた時から何度も口にしていたけど、いざこうなってみるとかなり残酷だった。

ボタンのかけ違いは、大抵最後の一つになるまで気が付かない。私たちはとっくにかけ違いに気づいていたのに気づかないふりをしていた。よく言えば現状維持、悪く言えば惰性。

一緒に内見に行き、興奮冷めやらぬまま契約をした南区のあの部屋。日当たりがよくて、理想の間取りで、こんな生活配線にしようね、こだわりの家具家電を少しずつ揃えるの楽しみだね、広い湯船に一緒に浸かって仕事の愚痴をこぼしたり、お気に入りのキャンプ用品も日常使いで並べたり、また買いすぎたねって重い買い物袋を両手に抱えたり、卵なしの記念日ケーキを張り切って手作りして驚かせたり、クローゼットに隠れて帰りを待ったり、そんなごくありふれた日常を共有したい、ただそれだけだったのに。いつからかどこからかボタンを掛け違えてしまっていた。

出会うべくしてあの時出会い、迎えるべくしてこのエンドロールを迎えた。縁は異なもの味なもの。

初めて人を愛するという感情を学び、愛されるという幸福感を味わい、そしてその愛を失う辛さも経験した。くだらないは幸せの最上級だと知った。できることはお互い全てしたけど、合わなかっただけ。うまくいかないことは確かに多すぎたけど、思い返せば楽しくて幸せだったことのほうが圧倒的に多かった。だからこの三年はプラマイプラ。誰が何と言おうとも私は無駄だったとは思わない、思いたくない。 憎しみばかりに目がいきがちだけど、落ち着いた今、好きだったところを書き出してみたら100個なんて一瞬だった。心の底から大好きだった、と自信を持って言えるから彼と出会ったことも好きになったことも一緒に過ごした時間も否定したくない、無かったことにしたくない。全部正解、良かったと肯定したい。そう思える前向きな自分になれたことも大きな成長だと自分を褒めたい。直接伝えることはできなかったけれど本当に感謝していて、こんな結末を迎えてしまったけれどいろんな感情を学ばせてくれてありがとう。同じように私は彼の心に何か残せただろうか。

もう憎んでも恨んでもあの日々は戻らない。でも最後だからこそ、最後くらいは、せめて溢れんばかりの楽しかった思い出だけを切り抜いて、鍵のついた宝箱にそっとしまっておいてもいい気がする。道端に転がる石ころが私たちにとっては宝石だと思えたそんな些細な幸せを秘めてあの街に置いていく。人は忘れるという便利な能力を持っているから、嫌な記憶はいずれ消し去ればいい。楽しかった思い出だけを楽しかったまま色褪せず残して、嫌なことは都合のいいように脚色したって構わない。気持ちが整理できたらその記憶を上書き保存していけばいい。あんなにぶつかったはずなのに、思い出は都合よく美化されていくものだから。それでいい、そうであってほしいし、そうでなければ困る。いつまでも濁った泥水に浸かっていられない。

もしいつか、ふと私と過ごした日々を思い出すことがあれば、こんな素敵な人と他人以下の関係になってしまったことを惜しめばいい。なんだかんだいつも許してくれて結局は自分のそばにいてくれると舐めた扱いを何度もしたことを悔やむといい。私の未来の足枷になろうものなら容赦しない。いや、もう私を忘れてくれることが本望かもしれない。泣くな、潔く能天気でいろ!

色々思うことはあるけれど、結局今こうして幸せを願ってしまうのは、どんな別れ方をしたって皮肉にも一度は好きになった人だからなのだろうか。地獄に堕ちろ!と憎めたらどんなに楽なんだろう。大嫌いにはなれない。嘘偽りなく、どうか幸せに生きていってほしいと願っている。私の知らないどこかで、私ではない誰かと、私と交わることは二度とない未来を。

変わらない過去を嘆くくらいなら、変えていくことのできる今を大切にしていくことのほうがよっぽど価値がある。人は残念ながら完璧ではないらしく、だからこそ、その不完全さが自分らしさになるんだと思う。自分ではコンプレックスに感じる部分を素敵だと言ってくれる人がいる。自分ではどうしようもないと感じるダメなところを愛おしいと思ってくれる人もいる。流した涙は数知れないし、この答えに辿り着くまでに時間はかかりすぎたけど、もう終わったことに対して彼を陥れるために費やす時間は必要ない。そんなことのために自分の残りの貴重な人生を使えない。この人と別れたら一生一人なんじゃないかとか、自分を好きになってくれる人なんてもう現れないんじゃないか、とか自己肯定感がどん底だったあの頃の私に、全然そんなことないから大丈夫だし、むしろあの時間が経験があったから次素敵な人巡り逢えるんだよと教えてあげたい。

私は弱いからこうして文字に綴ることで自分の気持ちを消化している。言い換えればこれが私の決意表明。人と離れるなんて大きな決断は初めてでやっぱり怖くてしんどくて二度と味わいたくないものだった。優柔不断だし、変化は不安だし、この先の保証もないし、これで本当に良かったのかは正直なところまだわからない。でもこの経験を乗り越えた先、人としての厚みが増しているはず。この選択が間違っていなかったと、自分の行動で正解にしていこうと思う。私は強くなりたい。

ただ、無理に剥がすと治りが遅くなる瘡蓋のように、今はまだほんの少しだけ痛みと向き合わせてほしい。寂しさという広くて静かなプールでぷかぷか浮いていたい。気が済んだらプールサイドに上がって日向ぼっこをしたい。涙も瘡蓋が乾いた頃には、間違いなく私は何倍も自分自身を好きになれている。人は自分を愛せる程度にしか他人を愛することはできないらしいから、きっとこれから恋愛に限らず本当に大切な縁がたくさん舞い込んでくる。進み始めたらもう振り返らない。せいぜい私が次に何倍も素敵な人に出会うための踏み台になってくれたらいい。

カップルで観ると別れるんだって、とよく聞いたあの映画。自分たちを彷彿とさせるシーンがいくつもあって、麦くんと絹ちゃんが自分たちと重なるたびにそれぞれのセリフの背景を熱弁して、他人事のように大笑いしながら二度も観たあの映画。クリスマスの浮かれ気分でサンタの帽子を被り、シャンパンの栓を思いっきり飛ばして、予約もしないで当日一か八かで手に入れたケンタッキーを頬張りながら観たあの映画。私たちも負けず劣らずのなかなかの大恋愛だったんじゃないかな。涙あり笑いあり、感動もおふざけも盛り沢山の長編ストーリー。映画の続編は大抵つまらないとよく言うように、これにて完結。

いつか何もかも過ぎ去って過去になる。

お互い知らない自分になっていく。

“相思相愛じゃない” “疑う余地もなく愛はない”

サンキュー、グッバイ。ありがとう、さよなら。

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はじまりは、おわりのはじまり。出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつか終わる。だから恋する者たちは、好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、おしゃべりをし、その切なさを楽しむしかないのだ。と。
(映画「花束みたいな恋をした」より)

 

大人

 

 

 

部活で帰りが遅い日に割り勘で買うからあげ棒。クーポン片手に放課後20分歩いて行くミスド。黒板のメッセージと2Lのコーラで祝う誕生日。マフラーを一緒に巻いて歌う息の白い帰り道。バレンタインに裏をかいて準備するお煎餅。電車を待つあいだのベンチでのおしゃべり。カウンター席で足を揺らながら食べるラーメン。ファミレスのドリンクバーと大盛りポテト。セミの声が聞こえる夜の公園と手持ち花火。

 

私が幸せだと感じるものはいつも単純なものばかり。お金がかからなくて、でもお金では買えなくて。大したことじゃないけれど、大したことじゃないのが好きだった。

 

レストランで次の料理を待つ時間よりも牛丼にサラダを付けるか迷う時間が好きで、火花を散らす豪勢なバースデープレートよりも不恰好に切り分けられたケーキがおいしかった。

 

街中の背の高いビルから見下ろす夜景よりも地元の温泉の望遠鏡から覗く景色が綺麗だったし、余白の広いお皿に乗ったお洒落なスイーツよりたまに食べるハーゲンダッツが至福だった。

 

インスタに載せるために行く映えスポットとか、写真を撮る間に溶けて崩れてしまうアイスとか、はいチーズで無理やり作るぎこちない笑顔とか、そういうのがなんとなく自分には大人すぎた。

 

いつの間にかSNSが自己顕示欲の塊に見えてキラキラした表向きの姿だけが切り取られた。私は私で好きなものを載せればいいはずなのに、人の私生活を干渉し干渉されることに勝手に気疲れしてしまっていつの間にか離れた。使い方はもちろん人それぞれで使い方次第では便利なツールなはずなのに、その度合いが難しい。

 

散らかった部屋も、脱ぎっぱなしの靴下も、使い古した歯ブラシも、毛玉だらけのセーターも、キッチンで再生栽培する豆苗も、レシートがパンパンのお財布も、画角からフレームアウトされて無かったことに。

 

おいしい食事とそれを楽しむ相手との時間。それ以上望むことなんて何ひとつないのに、居酒屋で酔っぱらうことが目的になって、ご飯の味も話した内容も記憶に残らず、どうでもよくなってしまうのが大人なら悲しい。一緒にいる相手が自分である必要性を見出せなくなった瞬間はやるせなくて虚しい。

 

でも、自分の考えだけが正しくて誰かの考えは間違っているなんてないから、他人は他人 私は私の思い描く大人像でそれぞれ違っていていいんだろうなと思うし、違っていないとつまらないと思う。大人という言葉に囚われなくても、気づいたらなってるものだとも思う。

 

私だけがいつまでも子どもに取り残されて、周りはみんな大人になっていったとばかり思っていたけれどそうでもないのかも。

 

何重にも包装されたハイブランドじゃなくても、そのプレゼントを用意するときに自分のことを考えてくれたんだなと思うとその時間が嬉しい。自分のためにかけてくれた手間隙が嬉しい。

 

何も起こらなくても楽しんで何か起きても楽しめたらいいなと思う。色んなことが義務になりすぎず感情が動く経験を忘れないでいたい。大人の意味が大したことない人であるならば、大人にはなりたくない。ロボットみたいな生き方はしたくない。

私って何ですか

 

私って何ですか

 

何を言ったら人を喜ばせれるのでしょうか

何をしたら人を傷つけてしまうのでしょうか

何ができるのでしょうか

何のために生きているのでしょうか

 

何何何何…

分からないことだらけで頭がパンクしそうです

私って一体何ですか

 

 

何かをすれば「余計なことをするな」

何もしなければ「役立たず」と言われます

「あれをしろ」「これはするな」…

私ってそんなに迷惑ですか 邪魔ですか いらないですか

私の意思ってどこにあるんですか

私の価値って何ですか

私はいつからロボットになったのですか

 

自分の言動が全て正しいなんて微塵も思いません

間違えることもあるし失敗することもあります

私の意見はあくまで一個人の意見でしかなくて

この星の絶対的な正論なんて思ったこともありません

だから価値観の押し付けはしないようにしてるし

押し付けられるのも真っ平御免です

人はそれぞれ自分の中の正義で生きているのだから

 

「いつでも自分が正しいと思ったら大間違いだ」とか

「あなたの考え方は間違っている」なんて言われたら

ちょっと落ち込んでしまいます

 

「相手の苦手なところがあったとしても

その分いいところもいっぱいあるんだよ

人はみんな違うし 自分の思い通りだとか

都合のいいようにはならないけど

それが個性なんだよ

自分も完璧な人間じゃないんだからお互い補い合う

そう心に余裕を持つだけで十分なんじゃないかな」

と以前アドバイスを受けたように

たった一つの言動でこの人はこういう人だと

毛嫌いするつもりはありません

でも「あなたは違う」なんて否定して

自分の価値観を押し付けないでください

 

私もあなたも人間です

血も出るし涙も出ます

我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢で

表向きの自分を繕ってきても

見えないところは傷まみれです

 

言葉にしなければ伝わらないとよくいいます

高コンテクスト文化の日本であってもそれは事実です

ですが この世は見えているものだけではありません

見えないけれど大切なものも山ほどあります

時には心を澄まして想像力を働かせることも

必要なのではないでしょうか

 

 

インドにこんな哲学があります

 

“ もし他人に贈り物をしようとして

その相手が受け取らなかったとき

その贈り物は言うまでもなく

贈ろうとした者のものになる

 

それと同じように

誰かに罵られたとしても

それを自分が受け取らなければ

それは罵った者のものになる ”

 

 

そうは言っても 真に受けてしまうのものです

常日頃、安定した情緒を意識していても

爆発してしまうときがあります

過呼吸になるくらい大声で怒鳴ってしまいます

いくら感動する映画を見ても泣かないのに

そういうときはここぞとばかりに涙が出て

翌日はパンパンに目が腫れるのです

 

お菓子売り場の子どもみたいに

四肢を広げてバタバタ喚いても

見えない圧力にかき消されてしまうのです

 

夏の暑い日の目眩のように視界は歪み

ベッドが変形するほど体は重く沈み

絡まったイヤホンのように

先端を見失った毛糸のように

出口のない迷路を彷徨い続けるように

自分が何だか分からなくなるのです

 

黒ひげ危機一髪みたいに小さなナイフで

知らないうちに滅多刺しにされて

特大の斧を振り翳しトドメの一撃で

心臓を抉られては もうボロボロです

 

 

私は悲劇のヒロインではありません

悲劇のヒロインになりたくもありません

人に弱いところを見せたくもありません

から元気に振る舞いたくもないし

ネガティブな姿はなおさら晒せません

 

誰にも100%素の自分を見せられません

誰も100%は信用できません

自分の言動で人を傷つけてしまうのも

誰かの言動に自分が傷つくのも嫌だからです

怖くて怖くて仕方なくて

そうすることでしか自分を守れないのです

 

 

仲良しだと思ってた子に陰口を言われてたり

よく遊んでた子に突然裏切られたり

「あの子ってウザイよね」と言ってたのに

何食わぬ顔でその子と話していたり

そういうのが怖いのです

 

そして 本人たちに自覚がないのと同じように

自分もそうしてしまっているかもしれないと

思うともっと怖くて堪らないのです

 

 

何を考えているか分からない不思議な人と

言われることがしばしばあります

 

引き出しの奥の奥のほうに自分をしまって

曝け出さないようにしているのかもしれません

言葉にしないと伝わらないのは知ってるのに

どう思われてるだろうとか考えすぎてしまって

曖昧な表現にすぐ逃げてしまいます

 

白か黒しかない世界なら一瞬で抹殺されるほど

ぼんやりしたグレーに染まって生きていて

人混みに埋れて かき消されないようにと

それだけで精一杯なのです

 

口先だけいいことを言う人も

八方美人でいい顔をする人も見分けれず

心を擦り減らしてきたはずなのに

白にも黒にもどっちの肩も持ちたくて

グレーでいるのかもしれません

 

でも自分がグレーでいる限り

混じり気のない白や黒からすれば

私は都合のいいヤツとしか見なされないことも

心のどこかで本当は分かっているのです

 

誰も傷つけたくないし

誰にも傷つけられたくないのに

自分でそう仕向けているのかもしれません

 

 

喜びは二倍、悲しみは半分

という言葉をよく耳にします

 

たとえば私の悩みを誰かに吐き出すとします

話をしてスッキリした私は

悲しみが半分になるかもしれません

でも残りの半分はどこに行くのでしょうか

何の関係もない相手に悩みという名の

マイナスな言葉を浴びせていれば

半分を渡すことになるのではないでしょうか

 

そう思うと人に相談ができなくなりました

相談と悪口の境が分からず

どちらも紙一重なのではと思い始めると

もう自己解決しか手段がありません

 

 

いつからか人を頼ることができなくなりました

 

人を頼ることができないということは

人に頼られることもなくなる気がします

自分が心を許さなければ

相手も心を許さないように

人間関係はそうして

成り立っているのかもしれません

 

 

人は完璧ではないから

意図しなくても誰かを傷つけてしまう

ことがあります

でもそうして歩み寄るからこそ

誰かを喜ばせることもできます

 

暗い表情をしていれば周りにも伝染するし

楽しく笑っていれば周りにも影響します

一人では生きていけないことを教えてくれます

 

 

私って何ですか

 

私には分かりません

死ぬまで分からないだろうし

死んでも分からないかもしれません

大それたことは何もできません

 

 

私は所詮広い宇宙の星屑の一つみたいに

小さなものなのです

宇宙から見たらこんなにもちっぽけで

望遠鏡も顕微鏡も使っても見えないほど

ふっと息を吹きかければ消えてしまうほど

消えてしまっても誰も気づかないほど

小さくて脆いのです

 

それでも 私は今ここに存在していて

たとえ いらない子だとか 鬱陶しいだとか

言われたとしてもその事実は変わりません

 

 

だから 誰かのためになっていなくても

誰のために生きられなくても

自分のためにだけでもいいから

自分だけは自分のことを否定したり

見捨てたり裏切ったりすることなく

認められたらいいのかなと思います

 

命は大切と言われるよりも

あなたが大切と言われたいのは

承認欲求でしかないのかもしれないけど

まずは自分で自分を認めること

 

 

苦しむために生きないで

自分を大切にすれば

周りも大切にできるでしょうか

自分を赦せば

周りも赦すことができるでしょうか

 

正解なんて何一つないけれど

自分の歩む道を正解にするのは

自分しかいないのかもしれません

誰かのために 何かのために

そんな格好いいことは何もできなくても

自分のために生きてもいいと思います

 

私の人生は私だけのものなのだから

誰かが支配したり干渉したり乗っ取ったり

できるものではありません

 

ただ一人で生きてきた気になってもいけません

どれだけの人が支えてくれたり守ってくれたり

叱ってくれたりしたことか

特に厳しい言葉を言ってくれる人は貴重です

本当にその人のことを思っていないとできないから

口だけいいことは誰でも簡単にできるから

 

 

 

 

結局のところ私って私でしかないんです

誰の操り人形でもなければ分身でもありません

 

私って何なのでしょう

 

どこにも転がってないその答えを

一生かけて探す真っ只中です

 

 

なんだか支離滅裂になってきたのでこの辺りで

 

 

 

 

 

 

 

私って何ですか

 

 

 

 

 

あなたは?

 

 

 

 

 

最近のこと

 

約2ヶ月ぶりにこのページを開いた

カタカタと文字を打つ音の心地よさを思い出す

 

長くて短い夏休みが終わって

大学3年生の秋学期が始まった

 

夏休みは楽しかった

序盤に意気込んで買った問題集は

一度しか手をつけなかったけど

それ以外はなかなか充実していた気がする

 

好きなアーティストのライブで

あちこちに足を運んだし

普段はなかなか会えない

高校や中学の友だちとも会うことができた

 

学校帰りの “ ついで ” とかではなくて

じゃあ何日の何時にここに行こうよ と

わざわざ連絡をくれる友だちがいるというのは

すごく幸せなことなんだと実感した

 

新しい家庭教師と塾のバイトにも慣れてきて

案内所と雑貨屋と掛け持ちでよく働いた

大変だね とよく言われるけれど

大変だとはこれっぽっちも思わなかった

割と何でも楽しんで出来るタイプだと思う

 

嫌なことが全くないわけではないけれど

ため息をつくほど立派で偉い人でもないからなあ

 

楽しいとか退屈というのは感じる時間の流れの早さで

無意識に自分自身で決めていると

何かの講義で聞いたことがあるけれど

その理論からいくと 夏休みは楽しかった

 

そして10%の増税とともに

満員電車通学が再開して今に至る

 

もう3年の秋だというのに

全休は無いし 週3で1限から始まる

朝早く家を出ると 季節の変化が目に見えてわかる

 

留学に行った同級生が 思いのほか多かった

校内ですれ違う顔見知りが 減った気がする

 

相変わらず悪口を言う人は どこにでもいる

そういう時の顔って 誰よりも魅力的じゃないし

聞いてる側もつまらないって そろそろ気づいてほしい

 

その時 その場で本人に伝えればいいと思うけれど

本人に言えないことなら他人にも話してはいけないし

何でも言い方、言葉の選び方次第だと思いつつも

そんな理屈が通用することばかりではないのだろう

 

そういえばジムに通いヨガや筋トレを始めた

昔からの友だちからは驚かれるだろうなと思うほど

体を動かすこととは縁のない人生だったから

自分磨きなんて大それたものではなくて

健康のためなわけだけど コツコツ続けていきたい

 

スーツを着てインターンに行った

普段履かないヒールは気持ちが引き締まる

全然興味ない分野でも 行って話聞いてみると

やっぱり何でもおもしろそうだと思う

スーツは窮屈だけど ワクワクもする

 

定期的に茶道を習いに通っている

日本のことをもっと知りたいし知ってほしい

でも言葉の説明だけで動きを理解するのが

いつまで経っても苦手だからどうにかしたい

 

いつでも自分は自分でいたいけど

輪からはみ出てはいけないときもある

気を使ったり愛想笑いしたりするのは疲れる

 

友だちとのラインのやり取りが上手くいかない

「会おう」の返信が「いいよ」だと

怒ってるように思われるのかな

顔文字の数だけ表情筋が衰える

どんな返信が正解なのか分からない

 

好きな作家の本を2冊新しく買った

言葉の使い方や 物事を見る角度が 相変わらず斬新だ

本の世界に入り込む時間やあの感覚を大切にしたい

 

大好きなサツマイモも季節がやってきた

お洒落なカフェはいつだって敷居が高いけど

何かしらサツマイモのものを食べたいなと思う

フラッと喫茶店に立ち寄るなんてのが割と好き

去年は頂き物の大量のお芋を使って

見よう見まねで干し芋を作ったなあ

 

インスタの投稿やストーリーを一旦やめてみた

表示されなくなったいいねの数は

もともと気にしないタイプだったけど

少しだけ丁寧な生活に変わった気がする

 

寝る前にラジオを聞いたりYouTubeを観たりする

途中で寝落ちするから 見逃し配信の期限が過ぎてしまう

 

毎度この時期になると肌の調子が悪い

皮膚科で貰った塗り薬 忘れずつけなければ、

今年の冬も乾燥との戦いが始まった

 

大好きなアイドルグループが

それぞれの今を始めようとしている

好きになったばかりのあの頃の私は

きっと想像もつかないだろうな

ずっと続くものだと思ってただろうな

 

悲しむ暇もなく 彼らのSNSが登場し

嬉しさと驚きで気持ちが追いつかない

ライブでは近くで見たくて仕方なかったのに

指先ひとつでメッセージが届いたら届いたで戸惑う

いいね を押すので精一杯でメッセージなんて送れない

人との適度な距離感って何だろう 難しい

 

自然災害が多すぎる

これだけはどうしようもないけれど

どうしようもないからこそ もどかしい

人間の身勝手さが招いたものだと気づくのはまだ先

こんなに備えておかなくても大丈夫だったね

って毎回笑って済んだらいいんだけど

 

相手の顔色を伺ってばかりいる

お世辞を言わない代わりに思ったことを

何でもすぐ口に出してしまう癖を指摘されて

自分でも直さないとと気をつけていたら

私ばっかり話してしまっていないかとか

気になってうまく話せなくなって気疲れしてしまった

あれ、心を開いてる友だちこんなに少なかったっけ

 

部屋が散らかり放題になっている

部屋と頭の中はいつも整頓しておくんだよという

おばあちゃんの口癖が頭を過る そろそろ片付けなきゃ

 

また月曜日が始まる

明日も朝は早い

早く寝よう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無機質

ラインとかメッセンジャーとか

そういった類がいつまで経っても苦手

 

文字だけしか情報がなくて

文字だけが全てだから

汲み取るとか 誤解とか すれ違いとか

面倒で難しくて嫌になる

 

そういうのに頭抱えて

神経すり減らして

時間割くのって疲れる

世知辛い世の中だ

 

雑踏の片隅で という曲にこんな歌詞がある

「右手で文字を操りながら

実際の表情はさて置いて

顔文字に感情を込めながら」

 

エクスクラメーションマークの数で

感嘆の度合いは伝わらないし

笑顔の絵文字の瞳の奥は

笑っていないようにも思える

 

もともと文字でのやり取りが苦手で

何日も何ヶ月も空けてしまうけど

それは故意の無視ではなくて

私なりにいつも頭の片隅にあって

どう返信しようと考えてはいる

それを言い訳だという人もいると思う

 

だけど頭の片隅にあるということが

もうすでに心を疲弊させているのだ

 

家族からや業務連絡、決め事は

できるだけ…できるだけ早く

返信するように気をつけているものの

それだけで手一杯になってしまっている

 

常にスマホを触っているような人間のはずなのに

なんでたった一言の返信ができないのか と

言われるのは百も承知だろうけど

 

根本的なことを言うと

人といるときにスマホを触っている

という行為がまず苦手なのかもしれない

 

自分といる人にそうされるのが苦手で

故に自分もそうしないようにしている

だから基本的に一人でいるときにしか使わない

 

画面越しの人とのやりとりももちろん大事

だけど今、目の前にいる人はもっと大事

その人とだけの時間にしたいとは確かに思っている

 

でも早い返信を求める人からしたら

やっぱりそれは言い訳でしかなくて

だからその証拠に既読無視・未読無視

なんていう如何にもマイナスな言葉ができて

それがきっかけで人間関係が

どうこうなってしまうこともある

 

友だちとの繋がりは、心や気持ちであって

スマホだのメッセージアプリだのWi-Fiだの

ではないと思っていた

 

だけどそんなのは綺麗事で

今はフォロワーの数が友だちの数で

thumbs-upの数こそがステータスになっている

 

メッセージの返信が遅い私みたいな人は

きっと釣れないつまらない奴に位置付けられる

 

来月遊ぶ約束をしている友だちからの

日にちの確認のラインを開き損ねていた

 

慌てて返信したけれど見て分かる

怒らせてしまった 返信の文面が怒ってる

 

こういうのでギクシャクするのが嫌なのだ

やきもき というか相手を勘ぐるというか

友だちとの関係がこんなことで崩れるのが嫌だ

「こんなこと」が「こんなこと」ではなくなっている

でもそうやって自分で友だちを減らしているのかも

私の勘違い 独りよがりだったならいいのだけど

そんなオチも無きにしも非ず どっちみち疲れる

 

学校で毎日会っていたら 教室で「あっ」と思い出して

授業3分前に話して済むことなのに そうではいかない

 

いつどこで誰と何をしていても

その場にいない人と繋がることのできる

スマホという存在を不便に感じる瞬間

冷酷だけど必要不可欠な無機質的な存在

 

私が小中学生の頃はスマホ所持者は少数派で

私も持っていない一人だった

 

おもしろいテレビの話は次の日学校でしたし

休日に遊ぶ約束は口頭で済ませたし

自転車で登下校中にするおしゃべりが楽しかった

たまに好きな子と固定電話で話すのが新鮮だった

電話越しの声が何処と無く照れくさかったり

あの子は今何してるのかな、なんて

会えない人のことを考えるのはワクワクした

 

クラスみんなにプロフィール帳を書いてもらったり

仲良しの子と交換日記をしたりもした

 

スマホを持つようになってから

そういうことしなくなったなとつくづく思う

 

雑貨屋さんでどれが喜ぶだろうって考えながら

便箋やポストカードを選んで 手紙を書き

封を閉じて切手を貼ってポストに入れて

そろそろ届いたかなって返事を待つなんてしなくても

指先ひとつで連絡が取れてしまう ほんと便利になった

 

留学先のホストファミリーやクラスメイトとも

遠くに住むおじいちゃんおばあちゃんとも

大学が離れた友だちとも

すぐそこにいるみたいに会話ができる

 

だけど便利になるということは裏を返せば

何か世間一般に「面倒」だと言われる工程を削るわけで

それが何となくかなしくも感じる

 

それでも世間の荒波に抗うなんてできるわけなく

流れるプールみたいに静かにその変化に乗っかるしかない

 

だから今日も、頭を抱えながら右手で文字を操っている

実際の表情はさて置いて顔文字に感情を込めながら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

競わない 比べない 争わない


私たちの多くはこれまで、競うこと・比べること・争うことを前提として生きることを教え込まれてきた 人と競い、比べ、争うことで人より抜きん出て初めて、偉いとか立派だとか素晴らしいと評価をされる という価値観で生きる日々を送ってきた


その結果、「幸せとは、競うこと・比べること・争うことではじめて手に入るのだ 人より抜きん出て、勝ち続けることが幸せを手に入れる唯一の道である」と信じて疑わなかった

 

勝つことこそが正しく、勝つために努力をしないのはダメな人間であり、競争から落ちこぼれると、社会の中でも価値がない存在であるかのような錯覚に陥ることもしばしば

 

そして、「どうして⚪︎⚪︎さんにできて私にできないの」だとか、「⚪︎⚪︎さんばっかりズルイ」だとか比較することでしか自分を表現できなかったり 自分がここにいることを証明できなかったり 安心感を味わえなかったり 時に絶望したりした 

 

勝手に競って比べて争って、勝手に情緒不安定になっている

 

他人の成績を聞き出して見下すことでしか自分の賢さを感じられないあのクラスメイトも、本当はその人はそんなこと微塵も思っていないのに勝手にそう解釈してしまう私も、どちらもPM2.5による大気汚染さながらの薄汚い思考回路をしている

 

辛いとか しんどいとか 自分なんかとか 感じる理由が「誰かと比べて」である限り、行き詰まってしまう 息も詰まってしまう


人間の価値というのは、勉強ができるとか、何か数字で判断できるような単純なものではない たしかに勉強は大事だし勉強することでその後の人生の幅が広がっていくことに間違いはないだろう 少なくとも私はそう信じて大学に通っているし実際勉強のできる人はほとんどの場合計り知れないほどの努力をしている

 

だからこそ大事なのは人と比べることではなくて自分を認めることから始まる気がする 甘口カレーとチョコレートの甘さを比べられないように同じ土俵に立たない者を比べることは無意味なんだと思う 勝手に比べられて一喜一憂する必要はこれっぽっちもない

 

自分が白い服を着るからグレーの服を暗い色だと感じ、自分が黒い服を着るからグレーの服を明るい色と判断するように、みんな自分の価値観で生きている その価値観を誤って押し付けないこと 誰にでも素晴らしい個性や存在価値があらゆるところに隠されている

 

人と競うことが好きな人はそのような生き方をすればいい だけど、競争にはキリがない 仮に勝ち抜いても、本人が満足しなければ永久に心が満たされることはなく、人を蹴落として優位に立っても孤独なだけかもしれない 


人と競い合って自分の目標を達成し、自分のためだけに生きるのも大事だけど、時には人に何かをすることで喜ばれ、自分も人の好意に甘えてそれに感謝して生きてもいいのではないか


そもそも、世の中の現象というのは、実は表裏一体なのかもしれない 特に、勝ち・負け、幸・不幸、善し・悪し、成功・失敗、敵・味方の5つは、常に分けられるように教育されてきたが、実は分けられないものではないだろうか

勝ちをつくるから負けが生まれ、特別に切り取った時間だけを幸せと感じるからそのほかを不幸に感じる 敵でも味方でもないただの相手を敵とみなすから一生分かり合えないと思い込む


ものや現象はある方向から見れば、幸せや成功に見え、また違う方向から見れば不幸であり失敗になる 見方が変わればまったく違ったものに映る だから、すべてのことをそのように分けることに意味はないような気がする


正しいか、正しくないかを問いかけるより、ただ笑顔で穏やかに折り合い、わかり合って生きていくこと 誰かを蹴落として自分が優位に立つ必要はないということ

 

比較はときに向上心になるけれど、何かと比較していると知らぬ間に何かを貶して優越感に浸る癖がついてしまう

 

大切なのは相対評価ではなく絶対評価 私たちは他の何とも比べられない絶対的な存在である それは自惚れでも過信でも傲慢でもなくて最強の自己肯定で揺るぎないもの 見た目も考え方もなにもかも異なるのだから比べないし比べられやしない

 

数字を競うことをしなかった日本人は、西洋化したことで病気になって死ぬ人が増加したらしい

 

数字を追いかける仕事をしている人はガンになりやすいと言われている 競い合ったり比べ合ったり数字に左右される生活ばかりしていると、やがて体は嫌がってしまい死ぬ方向に動くのだと言う


たとえば、100万円貯めたら幸せになれると思い一生懸命貯める でも、100万円貯めたら、1000万円持っている人がいることに気づく そして、1000万円貯めればもっと幸せになれると思い努力する しかし、1000万円貯まっても、その上には1億円持っている人がいる そして「必死」になっていくと、「必ず、死んでしまう」わけだ 100万円ない時は幸せではなかったのだろうか


つまり、数字的な幸せはどこにもないのだろう 幸せというのは私が感じる以外にはないのかもしれない

 

競わない、争わないでいると、敵を作らない それどころか、まわりのもの全てを味方にしてしまう 無敵というのは、敵を全部なぎ倒すことではなくて 敵を作らないこと 争いに来たものを全部味方にするのが無敵の本質だから

 

競わないし 比べないし 争わない

そうして周りに左右されない無敵な自分になる