らららの話

文が下手なので文を綴ります お手柔らかに

はじまりは、おわりのはじまり

恋愛はしゃぼん玉。不規則にゆらゆら漂い、時に近づけあったり遠ざけあったり不安定な動きを繰り返しながら、最後は音も立てずに弾けて消える幼く儚い輝き。

二十代半ば、三年弱、私の初めての大恋愛はまさかのタイミングで幕を閉じた。いや、自分の意思で幕を下ろした、というのが正しい。もうこれ以上ぶつかりたくない。楽しかった記憶を守りたかった。

あの頃の春の湿った夜風にはまだ冬の余韻が残っていて、ひんやり生ぬるく混在していた。何軒コンビニを回っても売り切れなほど当時流行っていた抹茶ラテ。行くあてもなく交差点に差しかかるたびに全力で戦った行き先決めじゃんけん。点滅信号に慌てて漫画みたいにずっこけたモリタの横断歩道。負けないでを流しながら入った絶対におばけがいる公衆トイレ。目を瞑って歩くずるいゲームをしたきぬかけの路。

理由なんてなくていいってお互いわかっていながらも、もっともらしい口実を探して、うんと遠回りして散歩したあの街。昼間賑わしくしていた人たちは暗くなる頃にはどこかにかくれんぼしてしまうけれど、日付が変わっても街灯を頼りに歩けるくらいには明るくて寂しさを感じないあの街。どこもかしこも至るところに思い出が詰まりすぎているあの街を再び訪れるのは今の私にはまだ苦しい。

あの街にいた時の私は無垢で純粋で、初心で無知で、靴擦れも寝不足も心地よく思えてしまうほどに盲目ながらも、両手に収まるくらいのちょうどいい幸せをちょうどいい温度であたためることができた。好きなところ100の本なら手を止めることなく書き出せたと思う。ごくありふれた平凡な日常こそが彩り、今でも昨日のことのようにすべて丁寧に鮮明に思い出すことができてしまうほど一つ一つの出来事を噛み締め、味わってきた。

ずっと前からお互いを知っていたみたいな居心地の良さ、他の人には伝わらないしょうもない笑いのツボ、ぴったり合う波長は本当に不思議で何にも代え難かったのに泡沫の夢となってしまうなんて、いかにも人生で笑えてくる。彼の不器用な優しさと私の素朴な気まぐれさが絶妙に溶け合うような、カップの底に溜まって微妙に混ざりきらないような、そんな長くて短い三年だった。あっという間という言葉は好きではない。

大事に大事に両手いっぱいに抱えてきたはずの思い出は、指と指の隙間から砂時計みたいに密かに溢れていて、気づいた時には空っぽになっていた。掬おうと足掻く間も与えず、全部全部過去になった。アルバムのページが増えることはもうないし、日当たり抜群で一目惚れした南区の新築の部屋に一緒に住む未来はあと一歩のところで自分で閉した。遠距離のモチベーションがやっとやっと叶うはずだった。初めて一緒に行った神戸で撮った「五年後の僕たちへ」の動画で話した予想は何ひとつ実現しなかった。

この先ずっと一緒に生きていく覚悟も、さよならを言う強さも持たなかった彼。代わりに私が切り出した別れには情からくるわずかな痛みと寂しさを伴ったけれど、ほんのちょっとの勇気とドライさで執着を手放した。今まで費やしてきた時間を無駄にしないことより、これからの時間を無駄にしないことのほうが大事だとどこかの誰かが言っていた。

一番近い他人同士だからこそ必要な、お互いを慮る気持ちがいつの間にか欠け、誰よりも大切に扱うべき存在なのに心無い言動で傷つけ合ってしまった。自分の意見だけが絶対的に正しいと決めつけないやわらかい想像力だとか、なるべく相手を傷つけないために選ぶまあるい言葉だとか、そういう思いやりが私たちの中で圧倒的に減ってしまっていた。恋人という存在は口約束でしかないから、当たり前のようにある当たり前ではない繊細で脆い愛を日々丁寧に育まなければいけなかった。人は些細なきっかけで二度と会えなくなってしまう。

価値観のすり合わせは決して努力・我慢・自己犠牲とかいうトゲトゲしたものではないはずだ。お互いの未熟さ故というよりは、きっと慣れとか甘えとかからくる身勝手な持論で、きれいに畳んで片付けた気分になっていた。側から見たらはみ出ることなくしまえていたけれど、実際はくしゃくしゃに丸めてタンスの空いたスペースに無理やり押し込んだだけだった。

ボタンのかけ違いは、大抵最後の一つになるまで気が付かない。私たちはとっくにかけ違いに気づいていたのに気づかないふりをしていた。よく言えば現状維持、悪く言えば惰性。今はこんなにぶつかってばかりだけれど、私が仕事を辞め、地元を離れ、一緒に住めるような環境に私が寄せさえすれば、きっと全て解決してずっと平和に仲良く暮らしていけるはず…と言い聞かせてきたのはやっぱり幻影だった。

恋愛は縁とタイミング、とはよく言ったもので、今更繰り広げるタラレバほど見苦しいものはない。もしも出会うタイミングが違っていればこんな結末を迎えなかったのだろうか、エンドロールが流れない未来はあり得たのだろうか、などと言うのはあまりにも愚問だから。縁は異なもの味なもの。

それでも、初めて人を愛するという感情を学び、愛されるという幸福感を味わい、そしてその愛を失う辛さも経験した。できることはお互い全てしたけど、合わなかっただけ。うまくいかないことは確かに多すぎたけど、思い返せば楽しくて幸せだったことのほうが圧倒的に多かった。だからこの三年はプラマイプラ。誰が何と言おうとも私は無駄だったとは思わない、思いたくない。彼と出会ったことも好きになったことも一緒に過ごした時間も全部良かったと肯定したい、否定したくない。そう思える前向きな自分になれたことも大きな成長だと自分を褒めたい。だって、くだらないは幸せの最上級なんてなかなか思えるものではないから。直接伝えられなかったけれど、本当に感謝している。同じように私は彼の心に何か残せただろうか。

もう憎んでも恨んでもあの日々は戻らない。でも最後だからこそ、最後くらいは、せめて溢れんばかりの楽しかった思い出だけを切り抜いて、鍵のついた宝箱にそっとしまっておいてもいい気がする。道端に転がる石ころが私たちにとっては宝石だと思えたそんな些細な幸せを秘めてあの街に置いていく。人は忘れるという便利な能力を持っているから、嫌な記憶はいずれ消し去ればいい。楽しかったことだけが楽しかったまま色褪せず残ればいい。都合のいいように脚色したって構わない。そして、その記憶も上書き保存していけばいい。

私を手放さないと手に入れられなかった自由を満喫できている頃だろう。私が大っ嫌いと言ったことを思う存分していてほしい。もしいつかふと私と過ごした日々を思い出すことがあれば、こんな素敵な人と他人以下の関係になってしまったことを惜しめばいい。なんだかんだいつも許してくれて結局は自分のそばにいてくれると舐めた扱いを何度もしたことを悔やむといい。私の未来の足枷になろうものなら、それだけは勘弁して!いや、もう私を思い出すことすらないのが本望かもしれない。実際、こんなに浸ってしまっているのはむしろ私のほうで、もうとっくに次に進んでるだろうから。男は泣くな、潔く能天気でいろ!それくらいがちょうどいい。

色々思うことはあるけれど、結局今こうして幸せを願ってしまうのは、どんな別れ方をしたって皮肉にも一度は好きになった人だからなのだろうか。地獄に堕ちろ!と憎めたらどんなに楽なんだろう。嘘偽りなく心の底から、どうか幸せに生きていってほしいと願っている。私の知らないどこかで、私ではない誰かと。

変わらない過去を嘆くくらいなら、変えていくことのできる今を大切にしていくことのほうがよっぽど価値がある。人は残念ながら完璧ではないらしく、だからこそ、その不完全さが自分らしさになるんだと思う。自分ではコンプレックスに感じる部分を素敵だと言ってくれる人がいる。自分ではどうしようもないと感じるダメなところを愛おしいと思ってくれる人もいる。流した涙は数知れないし、この答えに辿り着くまでに時間はかかりすぎたけど、もう終わったことに対して彼を陥れるために費やす時間は必要ない。そんなことのために自分の残りの貴重な人生を使えない。この人と別れたら一生一人なんじゃないかとか、自分を好きになってくれる人なんてもう現れないんじゃないか、とか自己肯定感がどん底だったあの頃の私に、全然そんなことないから大丈夫だよと教えてあげたい。

私は弱いからこうして文字に綴ることで自分の気持ちを消化している。言い換えればこれが私の決意表明。人と離れるなんて大きな決断は初めてでやっぱり怖くてしんどくて二度と味わいたくないものだった。優柔不断だし、変化は不安だし、この先の保証もないし、これで本当に良かったのかは正直なところまだわからない。後悔しないと言い切る自信や確証はまだない。でもこの経験を乗り越えた先、人としての厚みが増しているはず。この選択が間違っていなかったと、自分の行動で正解にしていこうと思う。私は強くなりたい。

ただ、無理に剥がすと治りが遅くなる瘡蓋のように、今はまだほんの少しだけ痛みと向き合わせてほしい。寂しさという広くて静かなプールでぷかぷか浮いていたい。気が済んだらプールサイドに上がって日向ぼっこをしたい。もし涙が出ることがあるなら、それは未練ではなく情、今の彼ではなく過去の彼とその思い出に対しての涙なんだって。そんな安っぽい涙はプールの水とともに流してバイバイ。瘡蓋が乾いて自然に剥がれる頃には、間違いなく私は何倍も自分自身を好きになれている。人は自分を愛せる程度にしか他人を愛することはできないらしいから、きっとこれから恋愛に限らず本当に大切な縁がたくさん舞い込んでくる。それ以降、進み始めたらもう振り返らない。

カップルで観ると別れるんだって、とよく聞いたあの映画。自分たちを彷彿とさせるシーンがいくつもあって、麦くんと絹ちゃんが自分たちと重なるたびにそれぞれのセリフの背景を熱弁して、他人事のように大笑いしながら二度も観たあの映画。私たちも負けず劣らずのなかなかの大恋愛だったんじゃないかな。涙あり笑いあり、感動もおふざけも盛り沢山の長編ストーリー。映画の続編は大抵つまらないとよく言うように、これにて完結。

いつか何もかも過ぎ去って過去になる。

お互い知らない自分になっていく。

“相思相愛じゃない” “疑う余地もなく愛はない”

サンキュー、グッバイ。ありがとう、さよなら。

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はじまりは、おわりのはじまり。出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつか終わる。だから恋する者たちは、好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、おしゃべりをし、その切なさを楽しむしかないのだ。と。
(映画「花束みたいな恋をした」より)

 

大嫌い

嫌いだ嫌いだ大嫌いだ!

目の前から消えてくれ!

私の知らない世界に永久追放させてくれ!

私の人生に無断で踏み入ってこないでくれ!

 

言わなくて済むことは言いたくない。

知らなくて済むことは知りたくない。

もめることなくやり過ごしていけるのなら、

できることならそうしたいに決まってる。

誰が好き好んで嫌いな人とぶつかるんだって話。

無駄な労力でどこまでも嫌いにさせてくれるな。

 

じゃあなんでフェードアウトしないのかって?

それはもっとダメだってわかってるから。

その時はうまくやり過ごしたつもりでも

その場しのぎにごまかしたところで解決しないから。

あとで結局ぶつかることになるから。

だったら、最初から自分に正直にいたほうがいい。

人は人の意見では決して変わらない。

私も。あなたも。あなた以外の人も。みんな。

嫌な接し方で関わってくるあの人も、

そんな人との距離感を考えてくれないあなたも、

そんなあなたといる私自身ももれなく嫌いです。

 

人は無理に変えようとしても意味がない。

だから出会ったり別れたりを繰り返しながら、

人はそれぞれの幸せを生きていくしかないんだって

吉本ばななの本にそう書いてあった。

ふむふむなるほど、確かに。

嫌なら自分が変わるか離れるかしかない。

 

私は心無い言動を受けても、もう何も感じない。

嫌な気持ちになるとわかってて見せつけのように

意地悪をしたり酷い言葉を浴びせられる人とか。

でも、そんな人たちの言動は心無いんでしょ?

心がそこに無いのだから、真に受けるだけ損!

心無い人に自分の大切な心を差し出すなんて正気?

静かに距離を置いて、自分を守らなきゃ。

あ〜危なかった。セーフセーフ!

同じ土俵に成り下がるとこだった!勘弁して!

心無い言動をする人は心無い言動をする人と

これからも仲良くしていてください!

私は私が大切なので、そんな人とはさようなら!

嫌いを超えて無関心!興味ない!!!

金輪際私の人生に足を踏み入れないでください!

 

大学生を終えて社会人になる前に

 

 

 

部活で帰りが遅い日に割り勘で買うからあげ棒

クーポン片手に放課後20分歩いて行くミスド

黒板のメッセージと2Lのコーラで祝う誕生日

マフラーを一緒に巻いて歌う息の白い帰り道

バレンタインに裏をかいて準備するお煎餅

電車を待つあいだのベンチでのおしゃべり

カウンター席で足を揺らながら食べるラーメン

ファミレスのドリンクバーと大盛りポテト

セミの声が聞こえる夜の公園と手持ち花火

 

私が幸せだと感じるものは

いつも単純なものばかり

お金がかからなくて

でもお金では買えなくて

大したことじゃないけれど

大したことじゃないのが

好きだった

 

レストランで次の料理を待つ時間よりも

牛丼にサラダを付けるか迷う時間が好きで

火花を散らす豪勢なバースデープレートよりも

不恰好に切り分けられたケーキがおいしかった

 

街中の背の高いビルから見下ろす夜景よりも

地元の温泉の望遠鏡から覗く景色が綺麗だったし

余白の広いお皿に乗ったお洒落なスイーツより

たまに食べるハーゲンダッツが至福だった

 

インスタに載せるために行く映えスポットとか

写真を撮る間に溶けて崩れてしまうアイスとか

はいチーズで無理やり作るぎこちない笑顔とか

そういうのがなんとなく自分には大人すぎた

 

いつの間にかSNSが自己顕示欲の塊に見えて

キラキラした表向きの姿だけが切り取られた

私は私で好きなものを載せればいいはずなのに

人の私生活を干渉し干渉されることに

勝手に気疲れしてしまっていつの間にか離れた

使い方はもちろん人それぞれで使い方次第では

便利なツールなはずなのにその度合いが難しい

 

散らかった部屋も

脱ぎっぱなしの靴下も

使い古した歯ブラシも

毛玉だらけのセーターも

キッチンで再生栽培する豆苗も

レシートがパンパンのお財布も

画角からフレームアウトされて無かったことに

 

段々加工アプリに写る顔がみんな同じに思えて

自分の顔に至っては宇宙人に見えて仕方ない

機能を使いこなせなかったことが第一だけど

私はこの先もデフォルトのカメラを使うかな

 

人に限らずものを撮るときもそうだけど

その時の色合いとか雰囲気をそのまま残したい

過剰な加工は記憶を歪めてしまう気がするから

等身大であくまでナチュラルにいきたいところ

 

おいしい食事とそれを楽しむ相手との時間

それ以上望むことなんて何ひとつないのに

居酒屋で酔っぱらうことが目的になって

ご飯の味も話した内容も記憶に残らず

どうでもよくなってしまうのが大人なら悲しい

一緒にいる相手が自分である必要性を

見出せなくなった瞬間はやるせなくて虚しい

 

でも、自分の考えだけが正しくて

誰かの考えは間違っているなんてないから

他人は他人 私は私の思い描く大人像で

それぞれ違っていていいんだろうなと思うし

違っていないとつまらないと思う

大人という言葉に囚われなくても

気づいたらなってるものだとも思う

 

私だけがいつまでも子どもに取り残されて

周りはみんな大人になっていったとばかり

思っていたけれどそうでもないのかも

 

何重にも包装されたハイブランドじゃなくても

そのプレゼントを用意するときに自分のことを

考えてくれたんだなと思うとその時間が嬉しい

自分のためにかけてくれた手間隙が嬉しい

 

何も起こらなくても楽しんで

何か起きても楽しめたらいいなと思う

色んなことが義務になりすぎず

感情が動く経験を忘れない大人になりたい

ロボットみたいな生き方はしたくない

私って何ですか

 

私って何ですか

 

何を言ったら人を喜ばせれるのでしょうか

何をしたら人を傷つけてしまうのでしょうか

何ができるのでしょうか

何のために生きているのでしょうか

 

何何何何…

分からないことだらけで頭がパンクしそうです

私って一体何ですか

 

 

何かをすれば「余計なことをするな」

何もしなければ「役立たず」と言われます

「あれをしろ」「これはするな」…

私ってそんなに迷惑ですか 邪魔ですか いらないですか

私の意思ってどこにあるんですか

私の価値って何ですか

私はいつからロボットになったのですか

 

自分の言動が全て正しいなんて微塵も思いません

間違えることもあるし失敗することもあります

私の意見はあくまで一個人の意見でしかなくて

この星の絶対的な正論なんて思ったこともありません

だから価値観の押し付けはしないようにしてるし

押し付けられるのも真っ平御免です

人はそれぞれ自分の中の正義で生きているのだから

 

「いつでも自分が正しいと思ったら大間違いだ」とか

「あなたの考え方は間違っている」なんて言われたら

ちょっと落ち込んでしまいます

 

「相手の苦手なところがあったとしても

その分いいところもいっぱいあるんだよ

人はみんな違うし 自分の思い通りだとか

都合のいいようにはならないけど

それが個性なんだよ

自分も完璧な人間じゃないんだからお互い補い合う

そう心に余裕を持つだけで十分なんじゃないかな」

と以前アドバイスを受けたように

たった一つの言動でこの人はこういう人だと

毛嫌いするつもりはありません

でも「あなたは違う」なんて否定して

自分の価値観を押し付けないでください

 

私もあなたも人間です

血も出るし涙も出ます

我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢で

表向きの自分を繕ってきても

見えないところは傷まみれです

 

言葉にしなければ伝わらないとよくいいます

高コンテクスト文化の日本であってもそれは事実です

ですが この世は見えているものだけではありません

見えないけれど大切なものも山ほどあります

時には心を澄まして想像力を働かせることも

必要なのではないでしょうか

 

 

インドにこんな哲学があります

 

“ もし他人に贈り物をしようとして

その相手が受け取らなかったとき

その贈り物は言うまでもなく

贈ろうとした者のものになる

 

それと同じように

誰かに罵られたとしても

それを自分が受け取らなければ

それは罵った者のものになる ”

 

 

そうは言っても 真に受けてしまうのものです

常日頃、安定した情緒を意識していても

爆発してしまうときがあります

過呼吸になるくらい大声で怒鳴ってしまいます

いくら感動する映画を見ても泣かないのに

そういうときはここぞとばかりに涙が出て

翌日はパンパンに目が腫れるのです

 

お菓子売り場の子どもみたいに

四肢を広げてバタバタ喚いても

見えない圧力にかき消されてしまうのです

 

夏の暑い日の目眩のように視界は歪み

ベッドが変形するほど体は重く沈み

絡まったイヤホンのように

先端を見失った毛糸のように

出口のない迷路を彷徨い続けるように

自分が何だか分からなくなるのです

 

黒ひげ危機一髪みたいに小さなナイフで

知らないうちに滅多刺しにされて

特大の斧を振り翳しトドメの一撃で

心臓を抉られては もうボロボロです

 

 

私は悲劇のヒロインではありません

悲劇のヒロインになりたくもありません

人に弱いところを見せたくもありません

から元気に振る舞いたくもないし

ネガティブな姿はなおさら晒せません

 

誰にも100%素の自分を見せられません

誰も100%は信用できません

自分の言動で人を傷つけてしまうのも

誰かの言動に自分が傷つくのも嫌だからです

怖くて怖くて仕方なくて

そうすることでしか自分を守れないのです

 

 

仲良しだと思ってた子に陰口を言われてたり

よく遊んでた子に突然裏切られたり

「あの子ってウザイよね」と言ってたのに

何食わぬ顔でその子と話していたり

そういうのが怖いのです

 

そして 本人たちに自覚がないのと同じように

自分もそうしてしまっているかもしれないと

思うともっと怖くて堪らないのです

 

 

何を考えているか分からない不思議な人と

言われることがしばしばあります

 

引き出しの奥の奥のほうに自分をしまって

曝け出さないようにしているのかもしれません

言葉にしないと伝わらないのは知ってるのに

どう思われてるだろうとか考えすぎてしまって

曖昧な表現にすぐ逃げてしまいます

 

白か黒しかない世界なら一瞬で抹殺されるほど

ぼんやりしたグレーに染まって生きていて

人混みに埋れて かき消されないようにと

それだけで精一杯なのです

 

口先だけいいことを言う人も

八方美人でいい顔をする人も見分けれず

心を擦り減らしてきたはずなのに

白にも黒にもどっちの肩も持ちたくて

グレーでいるのかもしれません

 

でも自分がグレーでいる限り

混じり気のない白や黒からすれば

私は都合のいいヤツとしか見なされないことも

心のどこかで本当は分かっているのです

 

誰も傷つけたくないし

誰にも傷つけられたくないのに

自分でそう仕向けているのかもしれません

 

 

喜びは二倍、悲しみは半分

という言葉をよく耳にします

 

たとえば私の悩みを誰かに吐き出すとします

話をしてスッキリした私は

悲しみが半分になるかもしれません

でも残りの半分はどこに行くのでしょうか

何の関係もない相手に悩みという名の

マイナスな言葉を浴びせていれば

半分を渡すことになるのではないでしょうか

 

そう思うと人に相談ができなくなりました

相談と悪口の境が分からず

どちらも紙一重なのではと思い始めると

もう自己解決しか手段がありません

 

 

いつからか人を頼ることができなくなりました

 

人を頼ることができないということは

人に頼られることもなくなる気がします

自分が心を許さなければ

相手も心を許さないように

人間関係はそうして

成り立っているのかもしれません

 

 

人は完璧ではないから

意図しなくても誰かを傷つけてしまう

ことがあります

でもそうして歩み寄るからこそ

誰かを喜ばせることもできます

 

暗い表情をしていれば周りにも伝染するし

楽しく笑っていれば周りにも影響します

一人では生きていけないことを教えてくれます

 

 

私って何ですか

 

私には分かりません

死ぬまで分からないだろうし

死んでも分からないかもしれません

大それたことは何もできません

 

 

私は所詮広い宇宙の星屑の一つみたいに

小さなものなのです

宇宙から見たらこんなにもちっぽけで

望遠鏡も顕微鏡も使っても見えないほど

ふっと息を吹きかければ消えてしまうほど

消えてしまっても誰も気づかないほど

小さくて脆いのです

 

それでも 私は今ここに存在していて

たとえ いらない子だとか 鬱陶しいだとか

言われたとしてもその事実は変わりません

 

 

だから 誰かのためになっていなくても

誰のために生きられなくても

自分のためにだけでもいいから

自分だけは自分のことを否定したり

見捨てたり裏切ったりすることなく

認められたらいいのかなと思います

 

命は大切と言われるよりも

あなたが大切と言われたいのは

承認欲求でしかないのかもしれないけど

まずは自分で自分を認めること

 

 

苦しむために生きないで

自分を大切にすれば

周りも大切にできるでしょうか

自分を赦せば

周りも赦すことができるでしょうか

 

正解なんて何一つないけれど

自分の歩む道を正解にするのは

自分しかいないのかもしれません

誰かのために 何かのために

そんな格好いいことは何もできなくても

自分のために生きてもいいと思います

 

私の人生は私だけのものなのだから

誰かが支配したり干渉したり乗っ取ったり

できるものではありません

 

ただ一人で生きてきた気になってもいけません

どれだけの人が支えてくれたり守ってくれたり

叱ってくれたりしたことか

特に厳しい言葉を言ってくれる人は貴重です

本当にその人のことを思っていないとできないから

口だけいいことは誰でも簡単にできるから

 

 

 

 

結局のところ私って私でしかないんです

誰の操り人形でもなければ分身でもありません

 

私って何なのでしょう

 

どこにも転がってないその答えを

一生かけて探す真っ只中です

 

 

なんだか支離滅裂になってきたのでこの辺りで

 

 

 

 

 

 

 

私って何ですか

 

 

 

 

 

あなたは?

 

 

 

 

 

おばあちゃんへ

 

夜、裁縫をしていると病院から電話がかかってきた 電話越しの声からおばあちゃんがかなり危ない状態だと察しがつく 間に合え間に合えと心で唱えながら40分ほど車を走らせて母と妹と病院へ向かうと、看護師さんが呼吸器を使って 何とか保たせてくれているところだった 病室に入ってほんの数分でおばあちゃんをつなぐ機械が0という数字が表示する テレビでよく見る光景と同じだった

 

おばあちゃんが亡くなった

私にとって理解できる初めての身近な死だった

 

乾燥のせいか分からないけど おばあちゃんの目尻は涙で濡れていて、次第に冷たく硬くなっていくその肌を 私は怖くてどうしても触ることができなかった

 

ここ1.2年でおばあちゃんは一気に体を悪くした 入退院を繰り返し、自宅でデイサービスを頼んだり 介護施設に入ったり忙しなかった 体が気持ちについていかないもどかしさにかなり疲弊していたと思う 今おじいちゃんが電子レンジの使い方も知らないくらいおばあちゃんは家事を全てこなす人だったから、車椅子を押してもらったり ご飯を食べさせてもらったり お風呂もトイレも自力でできないのは 私たちの想像以上に辛いことだったかもしれない

 

私は大学の授業やアルバイトのために車で40分の距離を頻繁に通うことはできなかったけれど、時間を見つけては病院でも施設でも会いに行った バイトが終わって夜会いに行くこともあればここ最近は丸一日休みがあれば友人ではなくおばあちゃんと会うのに時間を使った 「あの時こうしていればと後悔したくないからできることは全部したい」と合間を縫ってはほぼ毎日顔を見せに行ってた母がそばにいたから、私も生きてるあいだに伝えなきゃいけない感謝を見落とさずに済んだ

 

亡くなる2日前の25日もバイト前におばあちゃんに会いに行っていた ちょうどその日友人とラインで「感謝の気持ちは伝えられるうちに伝えなきゃ」という話をしていて、「私ってもっと周りに感謝することだらけなんじゃないか」と考えていたところだった 数年前に耳が全く聞こえなくなったおばあちゃんに私の声が届くことはなかったけれど「私のおばあちゃんでいてくれてありがとう」と伝えておけてよかったと心から思った「調子が悪いときは目も開けないし言葉も発しないよ」と毎日のように病院に通う母は言っていたけど、私が行くとその話がウソみたいに毎回「また来てね」と言ってくれた 無理をさせてしまったのかもしれない おばあちゃんは弱い姿を母の前でしか見せなかった

 

「また」がくることってどれほど幸せなんだろう

 

だんだん痩せて弱っていく姿を見ては泣きそうになったけど、おばあちゃんの前では絶対泣かないと決めていた 泣いたら本当に死んでしまう気がして、家に帰ってベッドで一人泣いた 泣いて眠れない夜はおばあちゃんが元気になったらしたいことを考えた 100日後に死ぬワニの話じゃないけど「死」を意識してはじめて「生」を強く感じるんだとわかった

 

食べることが大好きだったおばあちゃんがご飯を食べれない姿を見るのは胸が締め付けられる思いがした 細くなった血管は何本もの点滴に耐えられず内出血していたし手と足はパンパンに浮腫んでいたけれど、手を握るとほんの少し握り返してくれるのが嬉しかった 体温はかなり低くなっていたけれど、それでもぬくもりを感じられると生きていることを実感して安心した

 

おばあちゃんは私の前で 苦しいだとか痛いだとか怖いだとか一度も言わずただ頑張っていた 会うたびに、いつそれが最後になっても後悔のないように手を握り、抱きしめ、ありったけのありがとうと大好きを伝えた 呼吸器をつけて声を出す力もない中で「また来てね」と言ってくれたのが私の聞いた最後のおばあちゃんの言葉だった 手をブンブン振りながら「また来るね」と病室をあとにすると、目を開けるのがやっとなはずなのにドアが閉まるまで目線で見送ってくれた

 

数週間前には「おかわりないの?」なんておいしそうにお饅頭を食べてたのに、先のことなんて本当にわからない 人って思った以上に脆くて崩れやすくてあっけない

 

人は生まれた瞬間から死に向かって生きている 君の膵臓を食べたいという本の通り、人はいつ死ぬかなんて誰にもわからない あと1.2ヶ月ですねと言われたおばあちゃんは1.2日で亡くなったけれど、おばあちゃんより先に病院の帰り道で私が死んでいたかもしれない 思ったことは思った時に伝えないと後悔する

 

私はおばあちゃんが大好きだった

 

私が洗い物するから座ってていいよって言っても動かずにはいられないところも いつもお手伝いありがとうとこっそりお小遣いくれるところも 私たちの写真をずっとリビングに飾ってくれていたところも 誕生日にあげた派手なピンクのスパンコールのポーチをボロボロになるまで使ってくれてたところも お化粧や洋服が大好きでお洒落だったところも 年齢に関係なくみんなに均等にお年玉をくれてたところも 毎学期通知表を見せに行くのを楽しみに待っててくれたところも 料理が上手で張り切って作り過ぎてしまうところも全部全部大好きだった

 

中でもおばあちゃんの作る茶碗蒸しは本当においしくて何度も家で真似したけどうまく作れなかった 入院してすぐの頃、「茶碗蒸しの作り方教えてほしいから早く良くなってね」と伝えると「じゃあ家に帰れるくらい元気にならなきゃな」と言っていた

 

成人式はお母さんの振袖を着た 特にこだわりがなかったのもあるけど、おばあちゃんがお母さんのために選んだ振袖を着て見せたかった だから式が終わると同窓会には参加せず一目散でおばあちゃんとおじいちゃんの家に向かった

 

本当に大好きだった

 

私は年々、人に自分のことを話すのが苦手になっていた 自分の話なんて興味ないかなとか話長すぎって思われてないかなとか深く考えてしまって家族にも仲の良い友人にもあまり自分のことを話せなくなっていた 「嬉しいことは2倍、悲しいことは半分」とよく耳にするけれど、悩みごとを話したら相手にその半分を背負わせてしまう気がしていつも自分の心の奥深くにしまって鍵を閉めては聞き役に徹していた

 

だからあれもこれも聞いてくれるおばあちゃんの存在は私にとってすごく大きくて一緒に住んでいなくても心の拠り所となっていた おばあちゃんはよく「うーちゃんにはうーちゃんにしかない良いところがいっぱいある」と言ってくれた だからこんな楽しいことがあっただとか、嬉しいことがあったとか 頑張っていること 上手くいかないこと 悲しいこと 苦しいこと 傷ついたこと 傷つけてしまったかもしれないこと、何でも話せた 何でも聞いてくれた

 

悲しいことに、私たちは大切な人を失うようにできている 誰かを大切に思えば思うほど失うときのダメージも大きい こんなに悲しい思いをするなら出会わなければよかったと思ってしまいがちだけど、そんなことはない いなくなることがこんなに辛いと思えるほどの人に出会えてよかったって思えたらほんの少し強くなって優しくなれる

 

自分本位で不謹慎な考え方かもしれないけど、おばあちゃんは苦しみながら私たちにお別れをする気持ちの準備期間を与えてくれていた気がする 心の準備はできているつもりだったけどそれでもどうしようもなく悲しかった でもそれでも静かに受け止めようと努めることができた 受け止め、受け入れると涙は悲しみだけのものではなくなった

 

おばあちゃんとのキラキラした思い出は静かに宝箱にしまっておく もしまた何かおばあちゃんに話したいことがあったら、思い出して泣いてしまう時があったら、その宝箱をそっと開けて今日に戻るんだ 楽しみにしてくれていたボーイフレンドも就職もまだだから、心配させてしまってるかな

 

今夜は静かな雨が降る

雨の音を聞きながら、留学中に届いた2通の手紙を読み返している「あと十ヶ月もすれば会えますね、心はずみます」まだ1ヶ月しか経っていない頃なのに心弾ませて残りの10ヶ月を待ってくれてたんだと思うとおばあちゃんがどうしようもなく恋しくなった

 

私のおばあちゃんになってくれてありがとう

私のおばあちゃんでいてくれてありがとう

まだまだ未熟な私だけど、

うーちゃんのおばあちゃんで幸せだよと言う

あの笑顔が見たくて頑張るから

もう頼らなくても大丈夫になるから心配しないで

苦しまないでゆっくり休んでね

 

解きかけで残ってたクロスワードの本を

持って帰ってきて毎晩寝る前に少しずつ進めてるよ

所々に残ってるおばあちゃんの字を見つけるたびに

あーでもないこーでもない と言いながら

こたつで一緒に解いていた頃を思い出すね

寂しいな

もう手を握ることも 抱きしめることもできないなんて

やっぱり耐えられないほど寂しいよ

 

一緒に食べに行ったご飯屋さんのメニューとか

かわいいと褒めてくれた髪型とか

散歩でよく通った道とか

隣に布団敷いて寝るのが好きだったお泊まりとか

夏には庭の水道で冷やしてくれてた西瓜とか

思い返すとキリがなくて

苦しくなって仕方ないけど 楽しかったなって思うよ

 

どこにいても いつまで経っても私のおばあちゃん

また会おうね 大好きだよ ずっと

 

最近のこと

 

約2ヶ月ぶりにこのページを開いた

カタカタと文字を打つ音の心地よさを思い出す

 

長くて短い夏休みが終わって

大学3年生の秋学期が始まった

 

夏休みは楽しかった

序盤に意気込んで買った問題集は

一度しか手をつけなかったけど

それ以外はなかなか充実していた気がする

 

好きなアーティストのライブで

あちこちに足を運んだし

普段はなかなか会えない

高校や中学の友だちとも会うことができた

 

学校帰りの “ ついで ” とかではなくて

じゃあ何日の何時にここに行こうよ と

わざわざ連絡をくれる友だちがいるというのは

すごく幸せなことなんだと実感した

 

新しい家庭教師と塾のバイトにも慣れてきて

案内所と雑貨屋と掛け持ちでよく働いた

大変だね とよく言われるけれど

大変だとはこれっぽっちも思わなかった

割と何でも楽しんで出来るタイプだと思う

 

嫌なことが全くないわけではないけれど

ため息をつくほど立派で偉い人でもないからなあ

 

楽しいとか退屈というのは感じる時間の流れの早さで

無意識に自分自身で決めていると

何かの講義で聞いたことがあるけれど

その理論からいくと 夏休みは楽しかった

 

そして10%の増税とともに

満員電車通学が再開して今に至る

 

もう3年の秋だというのに

全休は無いし 週3で1限から始まる

朝早く家を出ると 季節の変化が目に見えてわかる

 

留学に行った同級生が 思いのほか多かった

校内ですれ違う顔見知りが 減った気がする

 

相変わらず悪口を言う人は どこにでもいる

そういう時の顔って 誰よりも魅力的じゃないし

聞いてる側もつまらないって そろそろ気づいてほしい

 

その時 その場で本人に伝えればいいと思うけれど

本人に言えないことなら他人にも話してはいけないし

何でも言い方、言葉の選び方次第だと思いつつも

そんな理屈が通用することばかりではないのだろう

 

そういえばジムに通いヨガや筋トレを始めた

昔からの友だちからは驚かれるだろうなと思うほど

体を動かすこととは縁のない人生だったから

自分磨きなんて大それたものではなくて

健康のためなわけだけど コツコツ続けていきたい

 

スーツを着てインターンに行った

普段履かないヒールは気持ちが引き締まる

全然興味ない分野でも 行って話聞いてみると

やっぱり何でもおもしろそうだと思う

スーツは窮屈だけど ワクワクもする

 

定期的に茶道を習いに通っている

日本のことをもっと知りたいし知ってほしい

でも言葉の説明だけで動きを理解するのが

いつまで経っても苦手だからどうにかしたい

 

いつでも自分は自分でいたいけど

輪からはみ出てはいけないときもある

気を使ったり愛想笑いしたりするのは疲れる

 

友だちとのラインのやり取りが上手くいかない

「会おう」の返信が「いいよ」だと

怒ってるように思われるのかな

顔文字の数だけ表情筋が衰える

どんな返信が正解なのか分からない

 

好きな作家の本を2冊新しく買った

言葉の使い方や 物事を見る角度が 相変わらず斬新だ

本の世界に入り込む時間やあの感覚を大切にしたい

 

大好きなサツマイモも季節がやってきた

お洒落なカフェはいつだって敷居が高いけど

何かしらサツマイモのものを食べたいなと思う

フラッと喫茶店に立ち寄るなんてのが割と好き

去年は頂き物の大量のお芋を使って

見よう見まねで干し芋を作ったなあ

 

インスタの投稿やストーリーを一旦やめてみた

表示されなくなったいいねの数は

もともと気にしないタイプだったけど

少しだけ丁寧な生活に変わった気がする

 

寝る前にラジオを聞いたりYouTubeを観たりする

途中で寝落ちするから 見逃し配信の期限が過ぎてしまう

 

毎度この時期になると肌の調子が悪い

皮膚科で貰った塗り薬 忘れずつけなければ、

今年の冬も乾燥との戦いが始まった

 

大好きなアイドルグループが

それぞれの今を始めようとしている

好きになったばかりのあの頃の私は

きっと想像もつかないだろうな

ずっと続くものだと思ってただろうな

 

悲しむ暇もなく 彼らのSNSが登場し

嬉しさと驚きで気持ちが追いつかない

ライブでは近くで見たくて仕方なかったのに

指先ひとつでメッセージが届いたら届いたで戸惑う

いいね を押すので精一杯でメッセージなんて送れない

人との適度な距離感って何だろう 難しい

 

自然災害が多すぎる

これだけはどうしようもないけれど

どうしようもないからこそ もどかしい

人間の身勝手さが招いたものだと気づくのはまだ先

こんなに備えておかなくても大丈夫だったね

って毎回笑って済んだらいいんだけど

 

相手の顔色を伺ってばかりいる

お世辞を言わない代わりに思ったことを

何でもすぐ口に出してしまう癖を指摘されて

自分でも直さないとと気をつけていたら

私ばっかり話してしまっていないかとか

気になってうまく話せなくなって気疲れしてしまった

あれ、心を開いてる友だちこんなに少なかったっけ

 

部屋が散らかり放題になっている

部屋と頭の中はいつも整頓しておくんだよという

おばあちゃんの口癖が頭を過る そろそろ片付けなきゃ

 

また月曜日が始まる

明日も朝は早い

早く寝よう