らららの話

文が下手なので文を綴ります お手柔らかに

人の痛みは分からない

 

悲しいニュースが多すぎる。

「誰でもよかった」とナイフを振り回したり、「言うことを聞かないから躾だ」と手を上げたり、追い込むような言葉を笑いながら言えたり。いつからか私たちの心はこんなにも貧しくなってしまった。

食べたいときに食べたいものを食べ、欲しいときに欲しいものを手に入れられる。働けばそれなりのお給料を貰い、風も雨もしのげる場所で今日も安心して眠れる。

一見豊かになったように思える環境に、多くの私たちの心の豊かさは伴ってこなかった。

 

目まぐるしく変化する社会、地位や名誉、数字、他からの評価、根拠も信憑性もないネットの情報、あらゆるものに敏感に ときに怯えながら文字通り、心をな(亡)くして忙しくしている。

凶器を振りかざせば血が出る。酷い言葉を浴びせれば心に突き刺さる。そんな当たり前のようなことが分からなくなっている。少し考えたら分かるようなことを、(考えなくても分からないといけないことだけど)私たちはしてしまう。安易な気持ちで 時には悪意なしに。

さまざまな手段で自分自身を表現できるようになった。顔が見えない相手とも連絡を交わせるようになった。手のひらの中から世界中に言葉を発信する術を手に入れた。誰もがスポットライトを浴び、莫大な影響力を持つようになった。

なんでも便利にシンプルにコンパクトに変わっていく過程で、“想像する” ことも割愛してしまったのだろうか。

平凡から脱却し、自己を確立させたいがために、どうにかして自分の存在や立ち位置を証明したいがために、他人の気持ちを考え、推し量ることができなくなってしまったのか。あるいは自分の言動の重みに鈍感になってしまったのか。

人の痛みを100%理解することはできない。「その気持ち分かるよ」なんて簡単に言えない。人の痛みは本当のところまでは分からない。それは、人と自分が同じではないから。

私たちはきっと自分の中の正論で生きていて、無意識に自分の基準を相手にも押し付けてしまっている。

リスキー・シフト現象や集団思考が起こるように、(コミュニケーション論で習ったから使ってみたかったこのワード)一人で考えたら正しく判断ができることでも、集団の中に入ればできなくなってしまう場合もある。

みんな強者であり、どこかで弱者でもある。

側で寄り添ったり一緒に涙を流すことはできても、人の痛みをそっくりそのまま理解することは到底できない。それは、人と自分は別の独立した存在だから。

春になったらあったかくて嬉しい人もいれば、花粉が飛んで懲り懲りだという人もいる。好きな食べ物や行ってみたい場所が違うように、嬉しさも幸せも悲しさも腹立たしさも人によって違う。人によって捉え方はそれぞれだ。

みんながみんな同じ感覚を持っていたら簡単だけれど、その違いが自分をつくる、わたしになる。

もし自分がこれをされたらどう思うだろう、自分だったら何て言われたら嫌な思いをするだろう、何て言われたら嬉しいだろう。

こんなことをしたら相手はどう思うだろう、何をしたら相手を喜ばせられるだろう、どうしたら悲しませてしまうだろう。

そんな初歩的なことを、常識じゃないかと、言う人がいるかもしれない。だけど、その初歩的で 常識的なことができない人があまりにも多すぎる、私も含めて。

前にも述べた通り、私の痛みはあなたには分からないし、あなたの痛みも私には分からない。

だけど、それでも、自分の心が痛むように 誰もが痛みを感じる。それは紛れもない事実である。

誰かを殴る自分の拳はジンジンと痛まないか、罵詈雑言を浴びせる自分の心はズキズキと痛まないか。周りの人を大切にするのと同じくらい

自分自身も大切にしなければならない。10代の死因1位が自殺である異常さに気づかなければならない。

やっぱり結局のところ、人の痛みは分からないのかもしれないけれど、それでも想像力を働かせて考えることはできる。そうしたら、人の痛みが自分の痛みとなってほんの少しでも感じられるようになる。

分からないから分かりたい、自分のことも分かってもらいたい。人に無関心だから今の子は怒ることもないと言われるけどそんなことない。

見飽きるほどの悲しいニュースに感覚が麻痺してしまわないように

 

追加:

言葉は時として凶器になる

ナイフなんて比にならないくらい

重く 鋭く 心を抉ってくる

(翌日観た3年A組より)

 

深いな〜