らららの話

文が下手なので文を綴ります お手柔らかに

奥深くにあるもの

“ Are women discriminated against in Japan? ”

という題のレポートを今学期書いた

 

 


日本は先進国の中でも特に

男女格差が大きいことで知られているが

たとえば、国家の政治に携わる職業は男性が多く

教育の面では、よりアカデミックなレベルに

上がるにつれて男性の指導者が圧倒的に増える

研究者や医者においても男性が大多数を占め、

賃金の格差もなかなか縮まらないのが現実だ

 

また、昨年の紅白歌合戦星野源さんが「 紅組も白組も性別関係なく、混合チームでいけばいい 」と言い、

これに対して番組責任者は「 紅白、歌合戦、というベースがある限り紅白歌合戦であるということ。時代の流れに取り残されないよう、男女を超えた企画という形で最善の策をとっている。変える必要はない。」と答えた

 

 


男性は外で働き、女性は家事や育児をするという

典型的で古典的な考え方に反対する人であっても

無意識に 男らしさ 女らしさ に縛られていたりもする

男女格差をなくそう!と取り組むなかで、

社会的・文化的に形成された性別、ジェンダー

これに該当し、その在り方をじっくり正面から

見つめ直すタイミングが来たのではないだろうか

 

 


男性が率先してドアを開ければジェントルマン、

女性がサラダを取り分ければ出来る女だといわれる

 

 


車道側を歩くのは

メイクをするのは

食事を奢るのは

髪が長いのは

ピンクが好きなのは

ヒーローになるのは

スカートを履くのは

保育士になるのは

 

 

 

平成がまもなく終わるこのタイミングで

昭和世代と平成世代を対決させて分かり合えないとうたう

テレビ番組への違和感と同じように

○○女子!や 男ウケするには!などという言葉に

違和感を覚える人はどのくらいいるのだろうか

 

 


男はこうであるべき 女はこうであるべきという考え方は

実は見えないところにまだまだ潜んでいる

 

 

 

 

 


私たちが見るべきはもっと奥深くの本質的なものにある

のではないかと思う

 

 


男とか女とか 男らしさとか女らしさとか

何十億人といる人間をたった二つに分類しようとする

それ自体がそもそも無茶なのだろう

血液型で性格を4種類に分けたり

星座占いで落ち込んだりする以上の無理難題だ

予言の自己成就になりかねない

 

 


こうであるべきだという理想像やイメージを植え付けるのは

LGBTジェンダーレスといった言葉が浸透し始めてきても

黒人差別 障がい者への偏見 同性婚違憲 いじめ 戦争

いつまで経っても同じニュースの繰り返し

 

 


そしてそういったニュースを引用して

「世界ではこんな酷いことが起きています

この動画を見てください

寄付をして支援しましょう

ハッシュタグをつけてポストしましょう」

と言う人たち

 

 


それって “ 世界のどこかで起きている問題 ”

という他人事でしかない気がする

知ること 知ってもらうこと

問題意識を持つこと

遠く離れた場所での出来事に胸を痛め共感すること

それ自体を否定するつもりはないけれど

本当に問題解決を考えるなら1番にすることは

自分自身はどうなのか

自分が住んでいる場所はどうなのか

振り返るべきなのではないか

誰もが当事者であるという認識

 

 


黒人差別するなんて最低!

みんな人権を持っているのに信じられない!

と思ったとして、

じゃあ自分はどうだろうか

町で出会った欧米系の顔立ちの人に

ハローと話しかけたら

英語圏出身ではなかったどころか

英語より日本語が堪能であっただとか

自分が海外に行ってこんにちはと話しかけられたことなんて

一度もないのに 英語で話しかけられたその人は

一体どんな気持ちになっただろう

逆の立場だったらどんな気持ちになっていただろう

 

 


性別 年齢 国籍 母国 肌の色 宗教 民族 職業

私たちはあらゆるラベルを貼って生きている

それは時に自分の属する分類の明示になったり

自分の存在や立ち位置を認知するのに役に立つ

これが自分の証であるという錯覚をする

 

 


だけどそのラベルが悪い意味で他人との差別化になり

異なるラベルを持ったあなたとは分かち合えないと

シャッターを閉めることになる場合もある

 

 


ブルーハーツの“ 青空 ” を一度聞いてほしい

 

 


私たちは私たちが勝手に振り分けたラベルを

いくつも身に纏っているだけで服と同じ

本当はそれ以前に他の何にも属さない1人の人間である

何十億通り存在する“ 自分 ” という自分だけのラベル

 

 


だから自分自身に対しても周りの人に対しても

表向きだけの薄っぺらいラベルではなくて

もっと奥深くの本質を見ていかなければ

大切な何かを見落としてしまう

大切なのは目に見えるものばかりではないから

見えないけれど大切なものもたくさんある

 

 


心は男?女?だとか

恋愛対象はどっち?だとか愚の骨頂な質問が

おもしろおかしく繰り広げられるテレビ番組が

どれほどシラけたものか

 

 


万人が誰かを好きになるとも限らない

というそもそも論から入る必要があるけれど

こんな質問は非常に窮屈なものだと感じる

自分がひねくれているからだろうけど

男だから好きなの?女だから好きなの?と疑問に思う

 

 


男だから 女だから ではなくて

大事なのは 誰が好きなのか ではないだろうか

男でも女でも 出身がどこであろうと 言葉が通じなくても

あなた、という人が好きだ と思えたら素敵だし

わたし、という人を好きだと思ってもらえたら嬉しい

 

 


好きというものが何なのかよく分かってないけれど

もし私に好きな人ができたとしたら

きっと相手が男でも女でも 自分が男でも女でもそう言うのに関係なくその人が好きだと言うと思う

 

 


友だちも同じで、同性でも異性でも

気が合う人は合うし合わない人は合わない

合わないのが悪いわけじゃなくて

もちろん状況に応じて一概には言えないけれど

みんな違う人なんだから合う合わないはあるってこと

でもそれをラベルの先入観に持っていかれないこと

 

 


何の意味も持たないカテゴリー化によって

あらゆる可能性や選択肢を狭めていては勿体ない

 

 

私たちは 男らしさ 女らしさ 日本人らしさ とかの前に

自分だけの自分らしさで生きているということ

 

世界で起きている問題は 自分も当事者の一人であり

今自分の周りで起きている問題であると自覚するということ